伝習録 / 薛侃録
先生曰:「為學大病在好名。」侃曰:「從前歲自謂此病已輕,比來精察,乃知全未。豈必務外為人,只聞譽而喜,聞毀而悶,即是此病發來?」曰:「最是。名與實對,務實之心重一分,則務名之心輕一分;全是務實之心,即全無務名之心;若務實之心如飢之求食,渴之求飲,安得更有工夫好名?」又曰:「『疾沒世而名不稱』,『稱』字去聲讀,亦『聲聞過情,君子恥之』之意。實不稱名,生猶可補,沒則無及矣。『四十五十而無聞』,是不聞道,非無聲聞也。孔子云:『是聞也,非達也。』安肯以此望人?」
新字:先生曰:「為學大病在好名。」侃曰:「従前歲自謂此病已輕,比来精察,乃知全未。豈必務外為人,只聞誉而喜,聞毀而悶,即是此病発来?」曰:「最是。名与実対,務実之心重一分,則務名之心輕一分;全是務実之心,即全無務名之心;若務実之心如飢之求食,渴之求飲,安得更有工夫好名?」又曰:「『疾没世而名不稱』,『稱』字去声読,亦『声聞過情,君子恥之』之意。実不稱名,生猶可補,没則無及矣。『四十五十而無聞』,是不聞道,非無声聞也。孔子云:『是聞也,非達也。』安肯以此望人?」
書き下し
先生曰く、「学を為すの大病は名を好むに在り」と。侃曰く、「従前の歳、自ら此の病は已に軽しと謂う。比来、精察するに、乃ち全く未だしきを知る。豈に必ずしも外を務め人の為にせんや。只だ誉を聞きて喜び、毀を聞きて悶ゆるは、即ち是れ此の病の発し来たるか」と。曰く、「最も是なり。名と実とは対す。実を務むるの心、一分重ければ、則ち名を務むるの心、一分軽し。全く是れ実を務むるの心ならば、即ち全く名を務むるの心無し。若し実を務むるの心、飢の食を求め、渇の飲を求むるが如くんば、安くんぞ更に工夫の名を好む有るを得んや」と。又た曰く、「『世を没して名の称せられざるを疾(にく)む』の『称』の字は去声に読む。亦た『声聞、情に過ぐるは、君子は之を恥ず』の意なり。実、名に称わずんば、生くれば猶お補うべし。没すれば則ち及ぶ無し。『四十五十にして聞こゆる無し』は、是れ道を聞かざるなり。声聞無きに非ざるなり。孔子云う、『是れ聞なり。達に非ざるなり』と。安くんぞ肯えて此を以て人に望まんや」と。
現代語訳
先生が言った。「学問の大病は、名を好むことにある」。薛侃が言った。「これまで、この病は軽いと思っていました。近ごろ精しく省みて、まったくそうでないと知りました。外に向かって人のために振る舞う必要はありません。ただ誉められて喜び、謗られて悶えるのが、この病の現れでしょうか」。先生は言った。「まさにそうだ。名と実は対をなす。実を務める心が一分重ければ、名を務める心が一分軽い。すべて実を務める心なら、名を務める心はまったくない。もし実を務める心が、飢えて食を求め、渇いて飲を求めるようなら、どうして名を好む暇があろう」。また言った。「『世を去って名が称えられないことを憎む』の『称』は去声で読む。『評判が実情を超えるのを、君子は恥じる』という意だ。実が名に見合わなければ、生きているうちは補えるが、死ねば及ばない。『四十五十で聞こえるところがない』は、道を聞かないことだ。評判がないことではない。孔子は『それは聞であって、達ではない』と言った。どうして評判を人に望もうか」。