十善法語 / 巻第十二・不邪見戒之下
宋儒ノ類ハ心ハ本虛ニシテ物ニ應シテアトナシト云ヒ。本然ノ性氣質ノ性ナトト種種安排布置シテ。唯理窟ハカリヲ好ム。理窟ト云モノモ無盡ナルニ由テ。好メハイツマテモ理窟カ付テ回ルシヤ。大ナル理窟ヲ好メハ都表ナク大ニナル。浩然ノ氣天地ノ間ニ塞ルト云モ有ヘキコトシヤ。微細ナル理窟ヲ好メハ至極微密ニナリ。藕絲孔中ニ入リ。鍼鼻ニ滯リ蚊睫ニ巢フト云モ有ヘキシヤ。
新字:宋儒ノ類ハ心ハ本虚ニシテ物ニ応シテアトナシト云ヒ。本然ノ性気質ノ性ナトト種種安排布置シテ。唯理窟ハカリヲ好ム。理窟ト云モノモ無尽ナルニ由テ。好メハイツマテモ理窟カ付テ回ルシヤ。大ナル理窟ヲ好メハ都表ナク大ニナル。浩然ノ気天地ノ間ニ塞ルト云モ有ヘキコトシヤ。微細ナル理窟ヲ好メハ至極微密ニナリ。藕糸孔中ニ入リ。鍼鼻ニ滞リ蚊睫ニ巣フト云モ有ヘキシヤ。
書き下し
宋儒ノ類ハ心ハ本虚ニシテ物ニ応シテアトナシト云ヒ。本然ノ性気質ノ性ナトト種種安排布置シテ。唯理窟ハカリヲ好ム。理窟ト云モノモ無尽ナルニ由テ。好メハイツマテモ理窟カ付テ回ルシヤ。大ナル理窟ヲ好メハ都表ナク大ニナル。浩然ノ気天地ノ間ニ塞ルト云モ有ヘキコトシヤ。微細ナル理窟ヲ好メハ至極微密ニナリ。藕糸孔中ニ入リ。鍼鼻ニ滞リ蚊睫ニ巣フト云モ有ヘキシヤ。
現代語訳
宋儒のたぐいは、心はもともと虚であって、物に応じても跡がないと言い、本然の性、気質の性などと様々に並べ立てて、ただ理屈ばかりを好む。理屈というものも尽きることがないので、好めばいつまでも理屈が付いて回るのである。大きな理屈を好めば、際限なく大きくなる。浩然の気が天地の間に満ちる、と言うのもありそうなことである。細かな理屈を好めば、極めて細密になり、蓮の糸の穴の中に入り、針の穴に留まり、蚊のまつげに巣を作る、と言うのもありそうなことである。
解説
朱子学の本然の性・気質の性という区別や、心は虚で物に応じて跡がないという説を、尊者は理屈好きの産物として退ける。理屈は好めばいくらでも付いて回り、大きく論じれば天地に満ちる浩然の気となり、細かく論じれば蚊のまつげに巣を作るほど微細になる。浩然の気は孟子の言葉である。どちらも言えなくはないが、言えることと身につくことは別である。会議で議論が際限なく広がり、何も決まらない時に思い出したい指摘である。
この章句が説くこと
理屈宋儒朱子学性浩然の気
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『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。
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『十善法語』巻第十二・不邪見戒之下此ヲ近事ニ喩ヘハ。詩歌ヲ慣習スル者ハ多ク詩的興歌情生スル。計略ヲ慣習スル者ハ多ク計略ニ長スル。伎芸ヲ慣習スル者ハ多ク伎芸ニ妙ヲ得ル如シ。具ニ擴シテ充テ憶念セヨ。法相ノ五性各別ト云モ。此慣習ヨリ生シテ。無量時其性ヲ成スルコトソ。此等ノ事ヲ能憶念スルモノハ聖道ヲ得ル基トナル。今時ノ者ハ此心ノ斯ニ在リ。此道ノ斯ニ在コトヲ思ハヌ。人事ニ顕レテ隠レヌコトヲ思ハヌ。古今ニ貫テ明了ナルコトヲ思ハヌ。唯妄想ヲ逞クシテ兎角ニ迷フ。