十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上
前ニ云所ノ不邪見ノ德ヲ養ヒ全クセハ。人人聖賢ノ地位ニモ到ルヘシトハ。別事ニハアラス。善ヲ作シテ善ノ報アリ。惡ヲ作シテ惡ノ報アル。是一ニテモ。比屋ミナ聖賢ノ地位ニ入ル。善ヲ作シテ善ノ報有ルコトヲ信スレハ。善ヲ作サスニハ居ラレヌ。惡ヲ作シテ惡ノ報有ルコトヲ信スレハ。惡ヲ止ズニハ居ラレヌ。惡ヲナサス善ヲ作ス人ハ。其ママ善人ナルソ。今日モ善人。明日モ善人。內心ニ惡ナケレハ實ノ智慧生スル。此生モ善人。來生モ善人。善ヨリ善ニウツリ。實智慧ヲ全クスル人ヲ賢人ト名クル。聖人ト名クル。若世ニ聖賢アラハ。聖ハマスマス聖ナルヘク。此萬善智慧圓滿具足セル人ヲ。佛世尊ト名ルシヤ。サテサテ世間ノ者カ近キ處ニ在ル道ヲ忘テ迷フ。ムツカシクナキ理ヲ外ニシテ謬ルコトシヤ。
新字:前ニ云所ノ不邪見ノ徳ヲ養ヒ全クセハ。人人聖賢ノ地位ニモ到ルヘシトハ。別事ニハアラス。善ヲ作シテ善ノ報アリ。悪ヲ作シテ悪ノ報アル。是一ニテモ。比屋ミナ聖賢ノ地位ニ入ル。善ヲ作シテ善ノ報有ルコトヲ信スレハ。善ヲ作サスニハ居ラレヌ。悪ヲ作シテ悪ノ報有ルコトヲ信スレハ。悪ヲ止ズニハ居ラレヌ。悪ヲナサス善ヲ作ス人ハ。其ママ善人ナルソ。今日モ善人。明日モ善人。内心ニ悪ナケレハ実ノ智慧生スル。此生モ善人。来生モ善人。善ヨリ善ニウツリ。実智慧ヲ全クスル人ヲ賢人ト名クル。聖人ト名クル。若世ニ聖賢アラハ。聖ハマスマス聖ナルヘク。此万善智慧円満具足セル人ヲ。仏世尊ト名ルシヤ。サテサテ世間ノ者カ近キ処ニ在ル道ヲ忘テ迷フ。ムツカシクナキ理ヲ外ニシテ謬ルコトシヤ。
書き下し
前ニ云所ノ不邪見ノ徳ヲ養ヒ全クセハ。人人聖賢ノ地位ニモ到ルヘシトハ。別事ニハアラス。善ヲ作シテ善ノ報アリ。悪ヲ作シテ悪ノ報アル。是一ニテモ。比屋ミナ聖賢ノ地位ニ入ル。善ヲ作シテ善ノ報有ルコトヲ信スレハ。善ヲ作サスニハ居ラレヌ。悪ヲ作シテ悪ノ報有ルコトヲ信スレハ。悪ヲ止ズニハ居ラレヌ。悪ヲナサス善ヲ作ス人ハ。其ママ善人ナルソ。今日モ善人。明日モ善人。内心ニ悪ナケレハ実ノ智慧生スル。此生モ善人。来生モ善人。善ヨリ善ニウツリ。実智慧ヲ全クスル人ヲ賢人ト名クル。聖人ト名クル。若世ニ聖賢アラハ。聖ハマスマス聖ナルヘク。此万善智慧円満具足セル人ヲ。仏世尊ト名ルシヤ。サテサテ世間ノ者カ近キ処ニ在ル道ヲ忘テ迷フ。ムツカシクナキ理ヲ外ニシテ謬ルコトシヤ。
現代語訳
前に言った、不邪見の徳を養い全うすれば人々は聖賢の地位にも至るはずだ、というのは、別のことではない。善を行えば善の報いがあり、悪を行えば悪の報いがある。このこと一つだけでも、家々がみな聖賢の地位に入る。善を行えば善の報いがあることを信じれば、善を行わずにはいられない。悪を行えば悪の報いがあることを信じれば、悪をやめずにはいられない。悪をせず善を行う人は、そのまま善人である。今日も善人、明日も善人。内心に悪がなければ真実の智慧が生じる。この生も善人、来世も善人。善から善へと移り、真実の智慧を全うする人を賢人と名づけ、聖人と名づける。もし世に聖賢がいるならば、聖人はますます聖となるはずであり、このあらゆる善と智慧を円満に具え足りた人を、仏世尊と名づけるのである。さてさて、世間の者は近いところにある道を忘れて迷い、難しくもない道理をよそにして誤るのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『十善法語』巻第十二・不邪見戒之下初心ノ者ハ此等ヲ信セヨ。次第ニ正知見ヲ得ル基トナルシヤ。此ニ信スルト云ハ。律儀ニ聖賢ノ書ヲ信受スルシヤ。或ハ理ヲ擴メテ信スルコトシヤ。其理ヲ決択スルハ唯聖賢ニ在ル。凡夫ノマネヲスヘキテナイ。有人カ著セシ鬼神論ト云書ニ。此ヲ宋儒ノ理学ニ安排布置シテ云タ。皆閑言語シヤ。兎角因果報応ヲ信セネハ。世間ハクラヤミシヤ。云ヘハ云ホト理窟ノミシヤ。論語ニ子路カ鬼神ニ事ヘンコトヲ問。孔子ノ答ニ。未能事人。焉能事鬼ト。敢テ死ヲ問。未知生。焉知死ト。看ヨ。後儒ノ云如ク。一気飄然泯然トシテ尽ルト云ヤウナル浅近ノ理ナラハ。孔子カ直ニ子路ニ教ヘキコトナレトモ。十哲ノ中ノ子路ニタニ告ヌカラハ。此中別ニ深趣有テ存スト知ルヘキシヤ。
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『墨子』法儀昔の聖王、禹・湯・文・武は、兼ねて天下の百姓を愛し、率いて以て天を尊び鬼に事う。其の人を利すること多し、故に天、之を福し、立てて天子と為さしめ、天下の諸侯、皆な賓として之に事う。暴王、桀・紂・幽・厲は、兼ねて天下の百姓を惡み、率いて以て天を詬り鬼を侮る。其の人を賊うこと多し、故に天、之を禍し、遂に其の國家を失わしめ、身死して天下に僇と為り、後世の子孫、之を毁り、今に至るまで息まず。故に不善を為して以て禍を得る者は、桀・紂・幽・厲是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は、禹・湯・文・武是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は有り、人を惡み人を賊うて以て禍を得る者も亦た有り。
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荀子・大略篇凡そ物は乗じて来たる有り。其の出づるに乗ずる者は、是れ其の反(かへ)りなり。
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説苑・權謀孔子齊景公と坐す。左右白して曰く、「周使來りて廟燔くと言ふ」と。齊景公出でて問ひて曰く、「何の廟ぞや」と。孔子曰く、「是れ釐王の廟なり」と。景公曰く、「何を以て之を知る」と。孔子曰く、「詩に云ふ、『皇皇たる上帝、其の命忒はず』と。天の人に與するや、必ず徳有るに報ゆ。禍も亦た之の如し。夫れ釐王は文武の制を變じて玄黃の宮室を作り、輿馬奢侈にして振ふべからず。故に天其の廟に殃す。是を以て之を知る」と。景公曰く、「天何ぞ其の身に殃せずして其の廟に殃するや」と。子曰く、「天は文王の故を以てなり。若し其の身に殃せば、文王の祀、無乃ち絶えんか。故に其の廟に殃して以て其の過を章かにす」と。左右入りて報じて曰く、「周の釐王の廟なり」と。景公大いに驚き、起ちて拜して曰く、「善き哉、聖人の智、豈に大ならざらんや」と。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、抑、因果とて、よきあしき時のあるも、公案を尽して見るに、ただめづらしき、めづらしからぬの二つなり。おなじ上手にておなじ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今またおもしろくもなき時のあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、わるしと見るなり。その後またよき時のあるは、先にわるかりつるものをと思ふ心、まためづらしきに還りて、おもしろくなるなり。されば、この道をきはめをはりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義をきはめて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、善悪不二、邪正一如とあり。本来より、よきあしきとは何をもて定むべきや。ただ時によりて用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の衆人諸所にわたりて、その時のあまねき好みによりて取出す風体、これ用足る為の花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ、人々心々の花なり。いづれをまこととせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。
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説苑・說叢夫れ水は山に出でて海に入り、稼は田に生じて廩に藏す。聖人は生ずる所を見れば則ち歸する所を知る。