十善法語 / 巻第九・不瞋恚戒
華嚴經ノ中ニ。菩薩一念心ノ瞋恚ノ火ニ因テ。無量億却ノ功德法財ヲ燒失フトアル。論語ニ。一朝忿忘其身以及其親。非惑矣トアル。諸經論ノ因緣ハ數多アルコトシヤガ。ソノ中ニ一事ヲイハハ。西域記等ニ。佛滅後健駄邏國ニ一ノ羅漢アリ。一沙彌隨侍ス。此羅漢常ニ禪定ニ入テ。食時コトニ繩床ナカラ龍宮ノ請ヲ受ク。此沙彌心ニ疑フ。和上毎日何ノ處ニ受請アルト。一日繩床ノ下ニ隱レテ試ム。凡ソ佛ハ常ニ念ニ忘失ナキニ由テ。入定出定ノ隔ナキト云コトシヤ。羅漢ハ其德滿足ニ至ラザル故。憶念ナケレハ凡夫ニ同シキト云コトシヤ。此日モ羅漢常ノ如ク繩床ナカラ龍宮ニ到ル。沙彌ノ繩床ノ下ヨリ出ルヲ見テ。此處ハ汝カ來ルヘキニアラスト。龍王モ此凡夫僧ノ來ルヲ悅バズ。
新字:華厳経ノ中ニ。菩薩一念心ノ瞋恚ノ火ニ因テ。無量億却ノ功徳法財ヲ焼失フトアル。論語ニ。一朝忿忘其身以及其親。非惑矣トアル。諸経論ノ因縁ハ数多アルコトシヤガ。ソノ中ニ一事ヲイハハ。西域記等ニ。仏滅後健駄邏国ニ一ノ羅漢アリ。一沙弥随侍ス。此羅漢常ニ禅定ニ入テ。食時コトニ縄床ナカラ竜宮ノ請ヲ受ク。此沙弥心ニ疑フ。和上毎日何ノ処ニ受請アルト。一日縄床ノ下ニ隠レテ試ム。凡ソ仏ハ常ニ念ニ忘失ナキニ由テ。入定出定ノ隔ナキト云コトシヤ。羅漢ハ其徳満足ニ至ラザル故。憶念ナケレハ凡夫ニ同シキト云コトシヤ。此日モ羅漢常ノ如ク縄床ナカラ竜宮ニ到ル。沙弥ノ縄床ノ下ヨリ出ルヲ見テ。此処ハ汝カ来ルヘキニアラスト。竜王モ此凡夫僧ノ来ルヲ悦バズ。
書き下し
華厳経ノ中ニ。菩薩一念心ノ瞋恚ノ火ニ因テ。無量億却ノ功徳法財ヲ焼失フトアル。論語ニ。一朝忿忘其身以及其親。非惑矣トアル。諸経論ノ因縁ハ数多アルコトシヤガ。ソノ中ニ一事ヲイハハ。西域記等ニ。仏滅後健駄邏国ニ一ノ羅漢アリ。一沙弥随侍ス。此羅漢常ニ禅定ニ入テ。食時コトニ縄床ナカラ竜宮ノ請ヲ受ク。此沙弥心ニ疑フ。和上毎日何ノ処ニ受請アルト。一日縄床ノ下ニ隠レテ試ム。凡ソ仏ハ常ニ念ニ忘失ナキニ由テ。入定出定ノ隔ナキト云コトシヤ。羅漢ハ其徳満足ニ至ラザル故。憶念ナケレハ凡夫ニ同シキト云コトシヤ。此日モ羅漢常ノ如ク縄床ナカラ竜宮ニ到ル。沙弥ノ縄床ノ下ヨリ出ルヲ見テ。此処ハ汝カ来ルヘキニアラスト。竜王モ此凡夫僧ノ来ルヲ悅バズ。
現代語訳
華厳経の中に、菩薩が一念の心の瞋恚の火によって、無量億劫の功徳の法財を焼き失う、とある。論語に、「一朝の怒りにその身を忘れて、その災いが親にまで及ぶのは、惑いではないか」とある。諸々の経論の因縁は数多くあるが、その中の一つの事を言えば、西域記などに、仏滅後、健駄邏国に一人の羅漢がいた。一人の沙弥が付き従っていた。この羅漢は常に禅定に入って、食事の時ごとに縄床に座ったまま龍宮の招きを受けていた。この沙弥は心に疑った。和尚は毎日どこで招きを受けておられるのか、と。ある日、縄床の下に隠れて試みた。およそ仏は常に念に忘失がないので、定に入ることと定を出ることの隔てがないということである。羅漢はその徳が満足に至らないので、憶念がなければ凡夫と同じということである。この日も羅漢はいつものように縄床に座ったまま龍宮に着いた。沙弥が縄床の下から出てくるのを見て、「ここはお前の来るべき所ではない」と言った。龍王も、この凡夫の僧が来たのを喜ばなかった。
解説
この章句が説くこと
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒此時ハヤ竜王頭痛ス。羅漢此念ヲ知テ再三諫ム。汝持戒清浄ナレハ。勤精進セハ現在ニ聖果ニモ到ルベキソ。縦ヒ聖果ニ登ラズトモ。諸天ニ生スベキソ。諸天ノ果報ハ諸竜ノ比類ナラズ。竜宮ハ七宝荘厳アレトモ。此ハ摩尼珠ノ徳ナリ。畜生部類ヲ離ルルコトアタハズ。竜女モ化シ現スル所ハ諸ノ天女ニモマガフヘキナレトモ。其本形ハ悪毒蛇ノ姿ニテ。甚悪ムヘキソ。悪願ヲ止ヨト。沙弥瞋恚增上シテ此教ヲ受ケス。其後経行ノトキ。足ヨリ水生スルヲ見テ。我願満ズベシト云テ。袈裟ヲ以テ首ヲ覆ヒ入水シ。終ニ大竜ト成テ。此竜宮ヲ奪ヒシトアル。誠ニ一切煩悩ハ其体煩雑ニシテ。衆生ヲ悩乱スルコトシヤ。此沙弥少年出家シ。清浄ニ戒ヲ護持シ。此法ニ遇ヒ。此師ニアフ。勝縁具足スルタモ。少事ノ瞋恚ヲ降伏シ得ヌシヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒此時沙弥竜宮ノ荘厳。竜女ノ容貌ヲ見テ貪欲相応ス。食時ニ至テ。羅漢ニハ天ノ甘露ヲ供シ。沙弥ニハ人間相応ノ食物ヲ与フ。沙弥此ニテ瞋恚ヲ生シテ。自念言発願ス。食物ハ上座モ下座モ平等ナルヘシ。徳アルモ徳ナキモ其隔アルマシキ理ナリ。我徳ナキヲ侮リ。差別スルハ悪ムベシ。我出家已来ノ持戒誦経ノ功徳ヲ以テ。大力ノ竜王トナリ。此竜ヲ殺シ。此竜宮ヲ奪フヘシト。総シテ善願モ悪願モ誠心決定セルコトハ。其感応アルト云コトシヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒又昔天竺国ニ一ノ貧家アリ。其家婦姑常ニ和セス。或時ソノ婦飯ヲ炊ク。姑非理ニ呵責ス。婦瞋リ恚トモ。姑ニ対シテ相争コトアタハス。傍ナル藉羊ニ向テ。此羊コソ畜生ヨト云テ。モエクヒヲ以テ打ツ。其火カ羊ノ毛ニモエツク。羊ナキサケヒ。ニゲ出テ。積シワラノ中ニ入ル。其火ワラニ着ク時。風烈ク大火ニナリ。民屋ヲ焼亡シテ。国王ノ象部屋ニ及フ。象カ其象部屋ヲ推倒シ。迯ケ出テ。隣国ニ走リ往テ。人民田畠ヲソコナフ。是カ両国ノ争トナリ。数十年ノ軍陣カ起タト云コトシヤ。看ヨ。婦姑勃蹊カ両国ノ軍陣トナルシヤ。一念瞋恚ノ過ニ由テ。無量刧ノ過患トナル。互ニ能縁所縁ト成テ自他共ニ沈淪スルコト。此タグヒシヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒華厳経ニ。心ハ好画師ノ如ク。種種ノ五蘊ヲ造ル。世間一切ノ法。法トシテ造ラザルコトナシ。心ノ如ク仏モ亦シカリ。仏ノ如ク衆生モ亦シカリ。心仏及衆生。是三無差別トアル。又経ニ譬ヲ挙テ。画師カ五彩ヲ以テ夜叉ノ形ヲ画キナシテ。自ラ怖ルル如クトアル。一切衆生カ自心ニ思ヒヲ起シ。自心ト云名ヲツケテ。此心ヨリ境ヲ生シ。自カラ造作セシ境ニ随テ愛恚ヲ起ス。此ニ愛ヲ生スレハ。彼モ愛ヲ以テ応シ。此ニ瞋恚ヲ生スレハ。彼モ瞋恚ヲ以テ応ス。境カ心ニ随テ種種ニ転変スル。不可得ナルモノカ衆生トナリ来ル。瞋恚心トナリ来ル。瞋恚ノ一念心カアラレヌ姿ヲ成スル。誠ニ愚ナル画師カ自ラ画キ出シタ夜叉ニ怖レテ。自ラ夜分ニオソハルル如クシヤ。此ニ一ノ近キ故事カアルシヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒此人ノ此世ニ在ル。貴賤相従ヒ。老少相随フ。人畜交リ生シ。万物布列スルコト手足ノ一体ヲ共ニシ。二十指二十爪ノ各各布列スル如クシヤ。右辺是非ナク。左辺是非ナシ。其是非ヲ見ル者ハ見ル者ノ過シヤ。其瞋恚ヲ生スルハ生スル者ノ過シヤ。骨肉相纏縛シテ其中念相ノ仮ニ相続スルコト。海水ノ一波纔ニ動スレハ万波随フ如シ。前波ハ後波ノ起ルヲ知ラズ。後波ハ前波ヨリ動シ来ヲ知ラズ。前念ヲ縁トシテ後念続テ起ル。或ハ慳貪ムネヲ焦シ。瞋恚事ヲ敗ル。正念ニ思惟スレハ前念我他彼此ナク。後念我他彼此ナシ。唯慳貪ヲ起スハ。起ス者ノ失シヤ。瞋恚ヲ生スルハ。生スル者ノ過シヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒虚空ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。此虚空ハ元来天地万物ヲ容テ。我瞋恚ニ相関カラヌ。此瞋恚労シテ功ナキシヤ。山川草木ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。此山川ハ耳目ナク。思慮ナク。我瞋恚ヲ見聞分別セヌ。此草木ハ春夏ニ茂シ。秋冬ニ萎テ。我瞋恚ヲ屑トモセヌ。此瞋恚労シテ功ナキシヤ。鳥獣ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。此鳥獣ハ自カラ水草ヲ逐ヒ。自ラ食ヲ求メ友ヲ求ム。我言意ヲ解セヌ。此瞋恚労シテ功ナキシヤ。人間ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。此人間ハ日夜ニ衰老シテ終ニ死ニ帰スル。石火電光ノ暇且ク此世ニ存在スルモ。枯骨皮肉ニ裏マレタル物シヤ。我相手トナルニ何ノ所詮ナシ。此モ労シテ功ナキシヤ。過去ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。過去ハ已ニ過テ跡カタモナキシヤ。未来ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。未来ハ未タ来ラサレハ。安排布置カナラヌシヤ。現在ニ対シテ瞋恚ヲ生スルカ。現在ハ念念ニ過去ニ属スル。過去ノ過去際ヨリ未来際ヲ尽シテ。唯労シテ功ナキシヤ。