十善法語 / 巻第七・不兩舌戒
兩舌ト云ハ。律文ニ彼此鬪亂令他破也トアル。凡ソ世間ノ習。中已下ノ人ノ言ハ。多ク抑揚表裏アルモノシヤ。此等ノ言ハ。聞サレハ愈ヨシ。若聞モ心頭ニ留ベキコトデハナイ。若コレヲ聞テ憶持シ。此語ヲ彼ニ傳ヘ。彼語ヲ此ニ傳フレハ。必ス彼此ノ親好ヲ破シテ。ナカアシクナルベキシヤ。若今マテ親好ナル者ガ。其ヨシミ我ユヱ破ルハ。此ヲ十惡業ノ第七トス。兩ハ兩人兩家等ヲ指ス名シヤ。舌ハ言說往來ノコトシヤ。新譯ニハ是ヲ離間語ト翻スル。離トハ離別シヤ。間トハヘダツルコトシヤ。此事ノ鄙惡ナルヲ知テ。他ノ親好ヲ破セヌヲ不兩舌ト云。法アリテ此不兩舌ヲ護スル。友愛親好。人ニ交テ偏黨ナキヲ不兩舌戒ト云。是カ十善ノ第七シヤ。
新字:両舌ト云ハ。律文ニ彼此闘乱令他破也トアル。凡ソ世間ノ習。中已下ノ人ノ言ハ。多ク抑揚表裏アルモノシヤ。此等ノ言ハ。聞サレハ愈ヨシ。若聞モ心頭ニ留ベキコトデハナイ。若コレヲ聞テ憶持シ。此語ヲ彼ニ伝ヘ。彼語ヲ此ニ伝フレハ。必ス彼此ノ親好ヲ破シテ。ナカアシクナルベキシヤ。若今マテ親好ナル者ガ。其ヨシミ我ユヱ破ルハ。此ヲ十悪業ノ第七トス。両ハ両人両家等ヲ指ス名シヤ。舌ハ言説往来ノコトシヤ。新訳ニハ是ヲ離間語ト翻スル。離トハ離別シヤ。間トハヘダツルコトシヤ。此事ノ鄙悪ナルヲ知テ。他ノ親好ヲ破セヌヲ不両舌ト云。法アリテ此不両舌ヲ護スル。友愛親好。人ニ交テ偏党ナキヲ不両舌戒ト云。是カ十善ノ第七シヤ。
書き下し
両舌ト云ハ。律文ニ彼此闘乱令他破也トアル。凡ソ世間ノ習。中已下ノ人ノ言ハ。多ク抑揚表裏アルモノシヤ。此等ノ言ハ。聞サレハ愈ヨシ。若聞モ心頭ニ留ベキコトデハナイ。若コレヲ聞テ憶持シ。此語ヲ彼ニ伝ヘ。彼語ヲ此ニ伝フレハ。必ス彼此ノ親好ヲ破シテ。ナカアシクナルベキシヤ。若今マテ親好ナル者ガ。其ヨシミ我ユヱ破ルハ。此ヲ十悪業ノ第七トス。両ハ両人両家等ヲ指ス名シヤ。舌ハ言説往来ノコトシヤ。新訳ニハ是ヲ離間語ト翻スル。離トハ離別シヤ。間トハヘダツルコトシヤ。此事ノ鄙悪ナルヲ知テ。他ノ親好ヲ破セヌヲ不両舌ト云。法アリテ此不両舌ヲ護スル。友愛親好。人ニ交テ偏党ナキヲ不両舌戒ト云。是カ十善ノ第七シヤ。
現代語訳
両舌というのは、律の文に、あちらとこちらを争い乱し、他人の仲を破らせることである、とある。およそ世間の習いとして、中以下の人の言葉には、多く持ち上げたり落としたり、表と裏があるものだ。こういう言葉は聞かないのがいちばんよい。もし聞いても心に留めるべきことではない。もしこれを聞いて覚えておき、こちらの言葉をあちらに伝え、あちらの言葉をこちらに伝えれば、必ず両者の親しみを壊して、仲が悪くなるはずである。もし今まで親しかった者たちが、その好みを自分のせいで破るなら、これを十悪業の第七とする。両とは、二人や二つの家などを指す名である。舌とは言葉の行き来のことである。新訳ではこれを離間語と訳す。離とは離別であり、間とは隔てることである。このことの卑しく悪いことを知って、他人の親しみを壊さないのを不両舌という。法があってこの不両舌を守る。友愛親好であって、人と交わって偏りや党派心がないのを不両舌戒という。これが十善の第七である。
解説
この章句が説くこと
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