十善法語 / 巻第五・不綺語戒
分ニ隨テ聖教ヲ讀ム。讀メハ必ス如說修行ス。分ニ隨テ法ノ趣ヲ知ル。知レハ必ス身口相應ス。分ニ隨テ道ノ邪正ヲ辨ス。辨明スレハ必ス邪ヲ棄テ正ニ歸ス。此ニ至テ三寶ノ境ニ淨信心ヲ生ス。ソノ樂ミ生スル。餘人ノ知ルトコロデナイ。聖教ノ偈ニ。諸佛出世第一快。聞法奉行安穩快トアル。因果報應ノ理。毫釐ノ差ヒナキヲ知ル。此處ソノ樂生スル餘人ノ知ルトコロデナイ。諸惡ハ怖レテ又怖ル。諸善ハ欣慕シテ又欣慕ス。此處ソノ樂生スル。餘人ノ知ルトコロデナイ。世間一切ノ戯謔。假令許ストモ。見聞シテ居ラルル場處デナイ。一分ノ法味ヲ得ル。止ント思フテモ止ラレヌシヤ。法カ棄置レヌシヤ。
新字:分ニ随テ聖教ヲ読ム。読メハ必ス如説修行ス。分ニ随テ法ノ趣ヲ知ル。知レハ必ス身口相応ス。分ニ随テ道ノ邪正ヲ弁ス。弁明スレハ必ス邪ヲ棄テ正ニ帰ス。此ニ至テ三宝ノ境ニ浄信心ヲ生ス。ソノ楽ミ生スル。余人ノ知ルトコロデナイ。聖教ノ偈ニ。諸仏出世第一快。聞法奉行安穏快トアル。因果報応ノ理。毫釐ノ差ヒナキヲ知ル。此処ソノ楽生スル余人ノ知ルトコロデナイ。諸悪ハ怖レテ又怖ル。諸善ハ欣慕シテ又欣慕ス。此処ソノ楽生スル。余人ノ知ルトコロデナイ。世間一切ノ戯謔。仮令許ストモ。見聞シテ居ラルル場処デナイ。一分ノ法味ヲ得ル。止ント思フテモ止ラレヌシヤ。法カ棄置レヌシヤ。
書き下し
分ニ随テ聖教ヲ読ム。読メハ必ス如説修行ス。分ニ随テ法ノ趣ヲ知ル。知レハ必ス身口相応ス。分ニ随テ道ノ邪正ヲ弁ス。弁明スレハ必ス邪ヲ棄テ正ニ帰ス。此ニ至テ三宝ノ境ニ浄信心ヲ生ス。ソノ楽ミ生スル。余人ノ知ルトコロデナイ。聖教ノ偈ニ。諸仏出世第一快。聞法奉行安穏快トアル。因果報応ノ理。毫釐ノ差ヒナキヲ知ル。此処ソノ楽生スル余人ノ知ルトコロデナイ。諸悪ハ怖レテ又怖ル。諸善ハ欣慕シテ又欣慕ス。此処ソノ楽生スル。余人ノ知ルトコロデナイ。世間一切ノ戯謔。仮令許ストモ。見聞シテ居ラルル場処デナイ。一分ノ法味ヲ得ル。止ント思フテモ止ラレヌシヤ。法カ棄置レヌシヤ。
現代語訳
分に従って聖教を読む。読めば必ず説かれたとおりに修行する。分に従って法の趣を知る。知れば必ず身と口がそれに相応する。分に従って道の邪正を弁える。弁え明らかにすれば必ず邪を棄てて正に帰する。ここに至って、三宝の境に清らかな信心を生ずる。その楽しみが生ずる。ほかの人の知るところではない。聖教の偈に、諸仏が世に出るのは第一の快であり、法を聞いて奉じ行うのは安穏の快である、とある。因果応報の理に、毛筋ほどの違いもないことを知る。ここにその楽しみが生ずる。ほかの人の知るところではない。諸々の悪は怖れてまた怖れる。諸々の善は慕い求めてまた慕い求める。ここにその楽しみが生ずる。ほかの人の知るところではない。世間の一切の戯れは、たとえ許しても、見聞きしていられる場所ではない。一分の法の味わいを得る。やめようと思ってもやめられないのである。法が捨て置けないのである。
解説
この章句が説くこと
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『十善法語』巻第五・不綺語戒父母ノ許ナケレハ。朋友ニ交ラヌ。妻ヲ要ラヌ。父母好マスハ。一切ノ学問文辞。諸ノ技芸。ミナ為スマシキソ。此為ヌ処ニ誠ノ学問カ成就スルシヤ。父母カ嫌ハハ。一巻ノ孝経モ手ニ取マシキソ。コノ手ニ取ラヌ処ニ誠ノ孝経アルシヤ。此孝道立テ天ノ福ヲ得ル。昔虞舜ノ玄徳升リ聞エテ堯ノ譲ヲ受ケシ。此父母ニ孝ヲ全スル処ニ。四海ノ富。王者ノ位ハ顕ルル。世ニ孝道具テ。而モ貧賤患難ニ身ヲ終ルコトアル。愚ナルモノハ其徳ナキヤウニ思フベケレトモ。サウテナイ。正眼ニ看レハ。人人箇箇其徳錯ラヌ。但事ニ遅速アリテ。或ハ現在ニ其報ヲ得。或ハ来世ニ其果報ヲ得ル。四海ノ富。王者ノ位ノミナラス。三十三天ガ此孝養ノ中ニ具足スル。梵王宮ガ此孝養ノ中ニ具足スル。帝釈梵王宮ノミナラス。無漏聖道ノ基トナル。
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『墨子』法儀昔の聖王、禹・湯・文・武は、兼ねて天下の百姓を愛し、率いて以て天を尊び鬼に事う。其の人を利すること多し、故に天、之を福し、立てて天子と為さしめ、天下の諸侯、皆な賓として之に事う。暴王、桀・紂・幽・厲は、兼ねて天下の百姓を惡み、率いて以て天を詬り鬼を侮る。其の人を賊うこと多し、故に天、之を禍し、遂に其の國家を失わしめ、身死して天下に僇と為り、後世の子孫、之を毁り、今に至るまで息まず。故に不善を為して以て禍を得る者は、桀・紂・幽・厲是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は、禹・湯・文・武是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は有り、人を惡み人を賊うて以て禍を得る者も亦た有り。
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荀子・大略篇凡そ物は乗じて来たる有り。其の出づるに乗ずる者は、是れ其の反(かへ)りなり。
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説苑・權謀孔子齊景公と坐す。左右白して曰く、「周使來りて廟燔くと言ふ」と。齊景公出でて問ひて曰く、「何の廟ぞや」と。孔子曰く、「是れ釐王の廟なり」と。景公曰く、「何を以て之を知る」と。孔子曰く、「詩に云ふ、『皇皇たる上帝、其の命忒はず』と。天の人に與するや、必ず徳有るに報ゆ。禍も亦た之の如し。夫れ釐王は文武の制を變じて玄黃の宮室を作り、輿馬奢侈にして振ふべからず。故に天其の廟に殃す。是を以て之を知る」と。景公曰く、「天何ぞ其の身に殃せずして其の廟に殃するや」と。子曰く、「天は文王の故を以てなり。若し其の身に殃せば、文王の祀、無乃ち絶えんか。故に其の廟に殃して以て其の過を章かにす」と。左右入りて報じて曰く、「周の釐王の廟なり」と。景公大いに驚き、起ちて拜して曰く、「善き哉、聖人の智、豈に大ならざらんや」と。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、抑、因果とて、よきあしき時のあるも、公案を尽して見るに、ただめづらしき、めづらしからぬの二つなり。おなじ上手にておなじ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今またおもしろくもなき時のあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、わるしと見るなり。その後またよき時のあるは、先にわるかりつるものをと思ふ心、まためづらしきに還りて、おもしろくなるなり。されば、この道をきはめをはりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義をきはめて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、善悪不二、邪正一如とあり。本来より、よきあしきとは何をもて定むべきや。ただ時によりて用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の衆人諸所にわたりて、その時のあまねき好みによりて取出す風体、これ用足る為の花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ、人々心々の花なり。いづれをまこととせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。
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説苑・說叢夫れ水は山に出でて海に入り、稼は田に生じて廩に藏す。聖人は生ずる所を見れば則ち歸する所を知る。