十善法語 / 巻第三・不邪婬戒
家語ニ。哀公孔子ニ問フ。人道ハ何ヲ大ナリトス。孔子色ヲ作シテ對フ。君ノ此言ニ及フハ百姓ノ惠ナリ。古ノ政ハ人ヲ愛スルヲ大ナリトス。人ヲ愛スル所以ハ禮ヲ大ナリトス。禮ハ敬ヲ大ナリトス。敬ハ大昏ヲ大ナリトス。天地不合ハ萬物生セス。大昏ハ萬物ノ嗣ナリト。此等ハ俗中ノ教ナレトモ。法性法トシテ此道理有テ。古今泯セヌシヤ。眞如法性モ。性具性起モ。世智臆度ノ者カ解スレハ解セラルル。麻三斤喫茶去モ。打地咄喝モ。掠虛頭ノ者カ似セテ似セラルル。此人事男女ノ間ニ此法アルコトハ。凡情ヲ以テ量リ知ルヘキ所テナキシヤ。
新字:家語ニ。哀公孔子ニ問フ。人道ハ何ヲ大ナリトス。孔子色ヲ作シテ対フ。君ノ此言ニ及フハ百姓ノ恵ナリ。古ノ政ハ人ヲ愛スルヲ大ナリトス。人ヲ愛スル所以ハ礼ヲ大ナリトス。礼ハ敬ヲ大ナリトス。敬ハ大昏ヲ大ナリトス。天地不合ハ万物生セス。大昏ハ万物ノ嗣ナリト。此等ハ俗中ノ教ナレトモ。法性法トシテ此道理有テ。古今泯セヌシヤ。真如法性モ。性具性起モ。世智臆度ノ者カ解スレハ解セラルル。麻三斤喫茶去モ。打地咄喝モ。掠虚頭ノ者カ似セテ似セラルル。此人事男女ノ間ニ此法アルコトハ。凡情ヲ以テ量リ知ルヘキ所テナキシヤ。
書き下し
家語ニ。哀公孔子ニ問フ。人道ハ何ヲ大ナリトス。孔子色ヲ作シテ対フ。君ノ此言ニ及フハ百姓ノ恵ナリ。古ノ政ハ人ヲ愛スルヲ大ナリトス。人ヲ愛スル所以ハ礼ヲ大ナリトス。礼ハ敬ヲ大ナリトス。敬ハ大昏ヲ大ナリトス。天地不合ハ万物生セス。大昏ハ万物ノ嗣ナリト。此等ハ俗中ノ教ナレトモ。法性法トシテ此道理有テ。古今泯セヌシヤ。真如法性モ。性具性起モ。世智臆度ノ者カ解スレハ解セラルル。麻三斤喫茶去モ。打地咄喝モ。掠虚頭ノ者カ似セテ似セラルル。此人事男女ノ間ニ此法アルコトハ。凡情ヲ以テ量リ知ルヘキ所テナキシヤ。
現代語訳
孔子家語に、哀公が孔子に問うた。人の道では何を大事とするか。孔子は顔色を改めて答えた。君がこの問いに及ばれたのは人民にとっての恵みである。古の政治では人を愛することを大事とした。人を愛するための拠りどころとして礼を大事とする。礼は敬を大事とする。敬は大昏(君主の婚礼)を大事とする。天地が交わらなければ万物は生じない。大昏は万世の後継ぎのもとである、と。これらは世俗の中の教えではあるが、法性の法としてこの道理があって、古今に滅びないのである。真如法性も性具性起も、世間の智慧で推し量る者が解釈すれば解釈できてしまう。麻三斤や喫茶去も、打地や咄喝も、中身のない虚勢を張る者がまねればまねできてしまう。しかし、この人の世の男女の間にこの法があることは、凡夫の情で量り知ることのできるところではないのである。
解説
この章句が説くこと
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論語・八佾篇子曰く、上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以て之を観んや。
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『長短経』察相鄭伯、晋に如きて成を拝し、玉を東楹の東に授く。晋の大夫貞伯曰く「鄭伯は其れ死せんか。自ら棄つるのみ。視は流れて行は速く、其の位に安んぜず。宜なり、久しきこと能わざること」と。杜預曰く、鄭伯の端諦ならざるを言うなりと。六月に卒す。天王、劉康公・成肅公をして晋侯に会して秦を伐たしむ。成子、脤を社に受けて敬せず。劉子曰く「吾れ之を聞く、人は天地の中を受けて以て生まる、命と為す所なり。是を以て動作・礼義・威儀の則有りて、以て命を定む。能なる者は之を養いて以て福とし、能わざる者は敗りて以て禍を取る。是の故に、君子は礼に勤め、小人は力を尽くす。礼に勤むるは敬を致すに如くは莫く、力を尽くすは敦篤に如くは莫し。敬は神を養うに在り、篤は業を守るに在り。国の大事は祀と戎とに在り。祀に執膰有り、戎に受脤有り、神の大節なり。今、成子は惰りて其の命を棄つ。其れ反らざらんか」と。五月、瑕に卒す。
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『呻吟語』内篇・存心・只だ敬と怠の兩字に系る天下國家の存亡、身の生死は、只だ「敬」「怠」の兩字に系る。敬すれば則ち慎み、慎めば則ち百務脩まり舉がる。怠れば則ち苟くもし、苟くもすれば則ち萬事隳れ頹る。天子より以て庶人に至るまで、此くのごとくならざるは莫し。此れ千古の聖賢の兢兢たる所にして、世人の必ず由る所なり。
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尚書・太甲下惟れ天は親しむこと無く、克く敬する惟れ親しむ。民は常に懐くこと罔く、仁有るに懐く。
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『呻吟語』内篇・談道・敬は人を擇ばず、事を擇ばず、時を擇ばず或ひと敬の道を問ふ。曰く、「外面整齊嚴肅、内面齊莊中正なるは、是れ靜時涵養底の敬なり。書を讀めば則ち心讀む所に在り、事を治むれば則ち心治むる所に在るは、是れ主一無適底の敬なり。門を出づれば大賓を見るがごとく、民を使ふには大祭を承くるがごとくなるは、是れ隨事小心底の敬なり」と。或ひと曰く、「若し笑談歌詠、宴息造次の時ならば、恐らくは是くのごとくんば則ち矜持して泰然ならざらん」と。曰く、「敬は端嚴を以て體と為し、虛活を以て用と為し、正を離れざるを以て主と為す。齋日に衣冠して寢ぬるは、祭る所の者を夢寐すればなり。齋せざるの寢は、則ち衣を解き冕を脫ぐ。未だ衣冕を釋きて敬を持する者有らず。然り而して心邪僻に流れず、事道義に詭らざれば、則ち其の敬為るを害せず。君若し專ら端嚴の上に去きて敬を求めば、則ち鋤を荷ひ畚を負ひ、轡を執り車を御し、鄙事賤役、古の聖賢も皆之を為せり。豈に能く日日手容恭しく足容重からんや。又孔子の肱を曲げ掌を指し、及び居るに容らざる、點の沂に浴するがごときも、何ぞ其の敬為るを害せんや。大端心と正と依り、事と道と合へば、端嚴に拘拘たらずと雖も、其の敬為るを害せず。苟くも心千里に游び、意百欲を逐ひて、此の身は卻つて兀然として端嚴に此に在らば、這れは敬なりや否や。譬へば謹んで避け深く藏れ、燭を秉り珮を鳴らし、緩やかに步み輕く聲するは、女教の『内則』原と是くのごとし。貞信を養ふ所以なり。若し饁婦汲妻及び顛沛奔走の際に當たらば、自ら是れ迴避し得ず。然り而して貞信の守は深藏謹避する者と同じ。是れ何ぞ其の女教為るを害せんや。是の故に敬は人を擇ばず、敬は事を擇ばず、敬は時を擇ばず、敬は地を擇ばず。只だ個の心と正と依り、事と道と合ふを要するのみ」と。