十善法語 / 巻第二・不偸盜戒
總シテ世ノ怯弱臆病ト云ハ。ミナ道ヲ心得ヌ者ノ類シヤ。若十善戒法ヲ眞實ニ護持スル者有ハ。必勇猛剛强ノ德ヲ長ス。儒書ニモ自ラ反フシテ縮カラスハ。褐寬博ト雖トモ我惴レサランヤ。自ラ反シテ縮クハ。千萬人ト雖トモ我ユカント有ル。カウシヤ。直キ處カラ出タ勇カ誠ノ勇シヤ。又仁者ハ必勇アリ。勇者ハ必シモ仁アラストアル。カウシヤ。仁慈ノ餘カラ出タ勇テナケレハ皆暴虎馮河ノ勇ト名クルシヤ。
新字:総シテ世ノ怯弱臆病ト云ハ。ミナ道ヲ心得ヌ者ノ類シヤ。若十善戒法ヲ真実ニ護持スル者有ハ。必勇猛剛強ノ徳ヲ長ス。儒書ニモ自ラ反フシテ縮カラスハ。褐寛博ト雖トモ我惴レサランヤ。自ラ反シテ縮クハ。千万人ト雖トモ我ユカント有ル。カウシヤ。直キ処カラ出タ勇カ誠ノ勇シヤ。又仁者ハ必勇アリ。勇者ハ必シモ仁アラストアル。カウシヤ。仁慈ノ余カラ出タ勇テナケレハ皆暴虎馮河ノ勇ト名クルシヤ。
書き下し
総シテ世ノ怯弱臆病ト云ハ。ミナ道ヲ心得ヌ者ノ類シヤ。若十善戒法ヲ真実ニ護持スル者有ハ。必勇猛剛强ノ徳ヲ長ス。儒書ニモ自ラ反フシテ縮カラスハ。褐寛博ト雖トモ我惴レサランヤ。自ラ反シテ縮クハ。千万人ト雖トモ我ユカント有ル。カウシヤ。直キ処カラ出タ勇カ誠ノ勇シヤ。又仁者ハ必勇アリ。勇者ハ必シモ仁アラストアル。カウシヤ。仁慈ノ余カラ出タ勇テナケレハ皆暴虎馮河ノ勇ト名クルシヤ。
現代語訳
総じて世の臆病というのは、みな道を心得ない者の類である。もし十善の戒法を真実に護持する者があれば、必ず勇猛剛強の徳を伸ばす。儒書にも、「自らを振り返って正しくなければ、粗末な衣の卑しい者に対しても、私は恐れずにいられようか。自らを振り返って正しければ、千万人が相手であっても私は行こう」とある。こうである。まっすぐな所から出た勇が、まことの勇である。また、「仁者には必ず勇がある。勇者に必ずしも仁があるとは限らない」とある。こうである。仁慈の余りから出た勇でなければ、みな暴虎馮河(素手で虎に挑み、歩いて大河を渡る)の勇と名づけるのである。
解説
この章句が説くこと
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『武士道』第四章 勇・敢爲堅忍の精神・大勇の士は沈着重厚なりされど武士道の勇に於ける観念は、ただにかくの如きに止まらず。勇の人の精神に宿るや、現はれて沈毅となり、不動となる。平静なるは勇の休息せる形にして、又た勇の平衡を得て静止せる現象なり。之に反して大胆なる行為は、其の動勢に表はれたる形なり。大勇の士は、沈着重厚なり。事に処して、其常を失はず、矢石を冒して怖れず、災危に臨んで動かず、雷霆の威に屈せず、風波の烈に驚かず、泰山前に崩るとも変ぜず、鼎釼の中にありて自から安んじ、死生の巷に立ちて自から楽めり。真の勇者は、危を踏み、死に瀕して従容詩歌を詠じ、声音筆蹟毫も平生に異ならず。人、皆之を歎称せり。けだし悠々逼らざること、かくの如きは、其心に多大の余裕あるに因らずんばあらず。
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論語・公冶長篇子曰く、「道行われず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其れ由か。」子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し。」
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論語・陽貨篇子路曰く、「君子は勇を尚ぶか。」子曰く、「君子は義以て上と為す。君子勇有りて義無ければ乱を為し、小人勇有りて義無ければ盗を為す。」
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『武士道』第四章 勇・敢爲堅忍の精神・生くべき時に生き死すべき時に死すされど生くべき時に生き、死すべき時に死するは真の勇なり』と。又た泰西の識者の、肉体の勇と道徳の勇とを区別するが如きは、我国人も亦たつとに之を為す。いやしくも士林に在る者は、小少より既に大勇と匹夫の勇とを弁知せざるものなかりしならん。剛毅、大胆、自若、勇猛の徳性は、青年武士の嚮往する所にして、彼等は実例に則り、実行に由り、世の最も尊尚する此徳を磨厲して、敢て人後に落ちざらんことを努めたり。孩提の児童と雖、なお母の懐に在りて、武功譚、英雄物語に耳を傾け、もし苦痛を哀訴することあらんか、母は『些少の苦痛に泣くは卑怯者』と呵し、継ぐに『戦場に出でて、腕を断たれなば何如。切腹を命ぜられなば何如』等の属語を以てしたり。
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『武士道』第四章 勇・敢爲堅忍の精神・義を為すは勇なり勇もし義に由らずんば、即ち徳たるに値ひせず。孔子は論語にて、其常とする、消極よりして勇の定義を下し、『義を見て為さざるは勇無きなり』と説きしが、之を積極に換言すれば、則ち『義を為すは勇なり』となる。危を求め、命を殆くし、死の口に馳する事、人の或は之を以て勇に擬するあり。武人の如きは、誤つてシェイクスピアの所謂『庶出の勇』たる、暴虎憑河、死して悔いざる者を賛すと雖、ひとり武士道は然らず、死すべからずして死するを犬死と賤めたり。水戸の義公はプラトーの名さへ耳にせざりき。されば此哲人が勇を称して、『恐るべきものと、恐るべからざるものとを弁識することなり』と云へるが如きは、固より之を学びたること無し。然るに義公は曰へり、『戦に臨んで身を捨つること難からず、田夫野人と雖、之を能くす。