神皇正統記 / 巻四 他宗をそしるな
一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也。人の機根もしな〴〵なれば教法も無尽なり。況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思給べき也。且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろ〳〵の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代と云べき也。
書き下し
一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也。人の機根もしなじななれば教法も無尽なり。況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思給べき也。且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろもろの道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代と云べき也。
現代語訳
一つの宗派に志ある人が他の宗派をそしり卑しむのは、大きな誤りである。人の資質はさまざまなのだから、教えもまた尽きることがない。まして自分が信じる宗派すら明らかにしないまま、まだ知りもしない教えをそしるのは、この上ない罪業ではないか。私はこの宗派に帰依するが、人はまた別の宗派に志す。どちらにもそれぞれの益があるはずだ。これらはみな今生一度きりの縁ではない。国の主となり、政を輔ける人となったなら、諸々の教えを捨てず、どんな資質の人も漏らさずに、益が広く行きわたることを考えるべきである。しかも仏教に限らず、儒教と道教の二教、さらにはあらゆる道、卑しいとされる芸能にいたるまで、それを興し用いることをこそ聖なる代と言うべきである。
解説
神道の書としてもっとも意外な一段かもしれない。「一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也」——他宗の批判を、この書は明確に誤りと断ずる。理由は感情論ではない。「人の機根もしな〴〵なれば教法も無尽なり」——受け手の資質が多様である以上、教えも一つに絞れない、という構造からの結論である。さらに厳しいのは次の一句だ。「わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ」——自分の信じるものすら分かっていない者が、知りもしないものを貶す。他者批判の大半がこれに当たる。そして為政者への指示は「機をもらさずして」——どんな資質の人も取りこぼすな、と広がる。仏教だけでなく儒・道、さらに「いやしき芸まで」用いる社会を聖代と呼ぶ。多様性を理念ではなく統治の実務として書いている。
この章句が説くこと
一宗と余宗機根聖代多様性
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