自警録 / 第七章 譏謗に対する態度・譏謗の大部分は介意の価なし
しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起つ能わざる窮地に陥るごとく歎く。かくのごとき時には、少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言の葉の、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者はいかなる人かと聞けば、怒ったり怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。 あの男が一ぱい機嫌で悪口するはアルコールの蒸発が喉を過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言を弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障っても、あとに残らない。 しかるにこれを一々真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐くほうが多いから、為に人を怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分は聞流しにすべきもの、意に介する価値なきものと僕は信ずる。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん
新字:しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起つ能わざる窮地に陥るごとく嘆く。かくのごとき時には、少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言の葉の、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者はいかなる人かと聞けば、怒ったり怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。 あの男が一ぱい機嫌で悪口するはアルコールの蒸発が喉を過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言を弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障っても、あとに残らない。 しかるにこれを一々真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐くほうが多いから、為に人を怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分は聞流しにすべきもの、意に介する価値なきものと僕は信ずる。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん
書き下し
しかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起つ能わざる窮地に陥るごとく歎く。かくのごとき時には、少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言の葉の、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者はいかなる人かと聞けば、怒ったり怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。 あの男が一ぱい機嫌で悪口するはアルコールの蒸発が喉を過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言を弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障っても、あとに残らない。 しかるにこれを一々真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐くほうが多いから、為に人を怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分は聞流しにすべきもの、意に介する価値なきものと僕は信ずる。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん
現代語訳
ところが、少し気の小さな人は、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く書かれると、二度と立ち上がれない窮地に陥ったように嘆きます。そんなときには、少し度胸を大きく持ち、今日あって明日ない言の葉、ひと風吹けば散り果てるものだと思えば、悪口もそれほど不愉快に感じないばかりか、かえって一種のおかしみを感じるものです。自分を非難する者がいることを、直接または間接に聞いても、その非難者がどんな人かを聞けば、怒ったり恨んだりするよりも、むしろ一種のおかしみを感じます。 あの男が一杯機嫌で悪口を言うのは、アルコールの蒸気がのどを通って人の言葉として現れるのであって、一種のガスの作用にほかなりません。私たちの耳に届くころには、ちょうど消えてなくなっています。あの男がそんなことを言うのは、ちょっと奇抜で面白いが、あまり柄に合わない、本当のことでもあるまい、さらに力のある者とも思えない、と考えると、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えくらいに聞こえます。ちょっと耳には障っても、あとに残りません。 それなのに、これを一つ一つ真面目に受け取り、言葉通りに直訳して考えれば由々しいことになりますが、人はなかなか深く考えて悪口を言うことは少なく、ただその場その場で好き勝手に熱を吐くことのほうが多いのです。ですから、そのために人を恨み、あるいは自ら怒り、あるいは落胆し、あるいはやけになったりする価値はありません。そこで、世に処する者は悪口の六、七分は聞き流すべきもの、意に介する価値のないものと、僕は信じています。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん (折々は水も濁るものだと思って流せば、月は澄んで映るだろう)
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・知らぬ人の批評には弁解が要らぬもっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠をかけ、あちらに垣を結び、もって他を陥れんとする、手配り広き悪口もある。 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免れられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵を絞り出して吐く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々しく弁解する労を取るだけの価値がない。加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼是批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境に陥り衣服にも窮している、どうか助力を乞いたいと訴えたが、彼がその窮境に陥ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談を遮り、世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければよいではないか。 世間とは君を知らぬ人の謂いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介するに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・悪口は一時的のものが多い多くの悪口には一時的流言に過ぎずして、ほとんど一顧の値いなきものがある。俗諺にいう、「人の噂も七十五日」。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる月旦とか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、某はかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を食っても饜たらぬとか、倶に天を戴くを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始末を細々と記してある。 これを読む者が真面目に考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀の下に刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく褒め立てることがある。いわゆる輿論なるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙の噂をして、はなはだ怪しからぬ奴だと罵る。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても饜たらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵詈の言は、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・世評は修養の補助かれこれ相互の批評は人生の大部分を成しているかと思われる。むろんこれが刺激となって人生は進歩するものである。いかなる人でも、その備うる短所を批評せねばいい気になりますます得意となる。いかなる怪しからぬ行為あるものも、これを発いて反省を促さねば、ますますその暴行を逞しゅうしやすくなる。 世間の批評が我々の行為を抑制することは、あたかも羊の群れを監督するために羊犬を付けるがごとくである。おろかなる羊は草を食いながら、少しでも柔軟に、少しでも緑の草があるほうに進み、だいたいの方向も忘れて進み路を迷いやすい。このとき羊犬が迷った羊に吠えつき、各個の羊をその群れより離散せぬようにまとめると同じく、世評なるものは、我々が得意になり、あるいは岐路に迷わんとするとき、これを抑えて軌道に惹き着ける役目をするものと思えば、修養の一大補助ともみなされる。すなわち毀謗は社会の要求の声ともいうべきものならん。 それについてはこれを濫用せぬよう心がけることが最も必要である。してその濫用とは、 一にはその悪口をいった人を怨むこと、 二には自分の悪口されたのを聞き怒ること、 三は悪口を耳にしてヤケとなること、 四には悪口に対する弁解に大いにつとむること、 五には悪口のために落胆し萎縮すること、 等が、その主要なるものである。これらの弊に陥らぬようにするには、まず悪口に対してはいかなる態度におらねばならぬか、その度胸を定めたい。 悪口そのものについては他所にも述べたから、ここに再び繰り返す必要はない。僕のここに言わんとすることは、悪口の目的物となり、すなわち悪口を受けるものの態度について一言したい。
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・人に最大不快を与うるは何か人間社会で不愉快なる感を与うるものは数多あるが、これを一々区別して、何が最も有力なるかを尋ぬるに、貧困よりも疾病よりも、失望よりも何よりも、他人から悪く批評されることが最も有力なものであろう。 ある人が人間の行為として最下等なる職業を営む数多の醜業婦について、 「お前たちはこの商売していて一番イヤなことは何か」 と訊したら、お茶をひいて仲間に笑われることだと答えたそうであるが、彼らは日々の飯さえ遠慮して食い、終夜一睡もせぬことしばしばなるに、身体の苦しきよりは、やはり四囲の批評のほうがつらきものと見ゆる。 こういうと、あるいはそんな些細なことがと、言い流す人もあろうが、実際においては自分の悪口を言われても、これを心にかけず平然たるくらいまで進んだ人ははなはだ少ない。中にはそんなことは構わぬと称する人も数多あるが、なにかかにか言われると、まったく無頓着に聞き流す人はほとんどない。誰しも必ず心に不愉快を感ずる。ことに少しく神経過敏なものになると、なおさら不愉快を深く感ずる。無頓着と称される豪傑肌の者でさえも、その実なかなか心を悩まし、自分に対する悪口に無頓着なることは出来ぬ。またズッと高く進んだ聖人さえも、全然これを無視するを得難いもののように思われる。
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・英雄も聖人も悪口を気にかけるかつて故児玉大将が生存中、僕は一夕大将をその邸に訪ねたことがある。折から外出より帰った大将は、 「大層お待たせした」 と挨拶し、 「イヤハヤ、どうも元老の爺連がお互いに悪口言い合うを調和するは、一方ならぬ骨折りだ。今日も一日かかって、そんな骨折りをやって来た」 と歎ぜられた。僕は、 「悪口って、どんなことを言われるのです」 「どんなことって、まるで裏長屋の婆が井戸端でグズるのと異なったことはないさ」 「しかし天下を預かる英雄にはそんなこともありますまい」 「英雄は英雄でも、豪傑は豪傑でも、俺のことをこんなこと言った、怪しからぬ奴だ、あんなことをいったが不都合だと互いに陰口きいたのを、怨むようにこそこそと他人の悪口をいうさまは、毫も裏長屋の婆と異うことはない」 と言われたが、磊落にして世評などに無頓着を衒う豪傑にしても、なおかつかかる人が多い。いわんや普通の凡人においてはなおさらである。 また僕はかつて次のごときことを読んだことである。ソクラテスは容貌の醜い人で、世人が彼を誹謗するときは、必ずこの点を指摘した。しかし彼自身も容貌などは、どうでもよいと思うため、世人が自分の容貌の醜きを悪口すれば、自分もその仲間に加わり、一緒に笑い、己れの眼の飛び出しているは、四方八方をよく見るためであり、鼻の天井を向いているは、他人の嗅げないものを嗅ぐためであると磊落に笑い流していたが、その死せんとするにあたり、ヘムロックの杯を取りながら、 「いよいよ俺が死んだなら、もはや俺の容貌の醜きを笑う人もあるまい」 と一言した。してみると、他人が彼の醜きを譏るのを気にしていたと思われると説いた人の論を聞いた。この論がはたして当を得たるや否やは別とし、いわゆる聖人なるものも他人より悪口さるれば、少なくとも不愉快の感を起こすものと思われる。まして凡人においてをや。
-
自警録・第七章 譏謗に対する態度・言語よりも実行をもって弁解せよ(2)歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。 白隠和尚はその檀家の娘が妊娠して和尚の種子を宿したと白状したとき、世人から生ぐさ坊主と非難されても、平然として、 「ああそうかい」 と言い、生まれた後は、自分でその子を懐きなどしていたが、後、和尚の種子でなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚したことが明らかになった時も、また、 「ああそうかい」 といって世間の毀誉褒貶に無頓着であったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。 「何をもって謗を熄むる、曰く無弁。何をもって怨を止むる、曰く争わず」 と、また、 「人の我を謗るやその能く弁ぜんよりは、能く容るるに如かず。人の我を侮るや、その能く防がんよりは、能く化するに如かず」と。 実に尽せる言である。