囲炉夜話 / 第二百十九則・他の好處を留心して學ぶ
與朋友交遊,須將他好處留心學來,方能受益。 對聖賢言語,必要我平時照樣行去,才算讀書。
新字:与朋友交遊,須将他好処留心学来,方能受益。 対聖賢言語,必要我平時照様行去,才算読書。
書き下し
朋友と交遊するには、須らく他の好處を將て留心して學び來るべし、方めて能く益を受く。 聖賢の言語に對しては、必ず我平時に照樣に行ひ去るを要す、才かに書を讀むと算す。
現代語訳
友人と付き合うときは、その人の良いところに気をつけて学び取らなければなりません。そうしてこそ益を受けることができます。聖人や賢人の言葉に向き合うときは、自分が普段からそのとおりに行わなければなりません。そうしてこそ、本を読んだと言えるのです。
解説
友から学ぶことと本から学ぶことの、それぞれの要を示した対句です。上の句は、友と交わるなら、相手の好いところに心を留めて学び取れと言います。人の欠点は目につきやすいものですが、それを見ていても自分の益にはなりません。下の句は、聖賢の言葉を読むなら、普段の暮らしでそのとおりに行ってみて初めて、読書をしたことになると言います。照様とは、手本のとおりにという意味の口語です。友は生きた手本、書は言葉の手本で、どちらも受け取るだけでなく自分に写し取ってこそ学びになるという点でつながっています。
この章句が説くこと
友読書実践学問修身
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