碧巌録 / 第七十八則
如今人亦入浴亦洗水。也恁麼觸。因甚却不悟。皆被塵境惑障。粘皮著骨。所以不能便惺惺去。若向這裏。洗亦無所得。觸亦無所得。水因亦無所得。且道。是妙觸宣明。不是妙觸宣明。若向箇裏。直下見得。便是妙觸宣明。成佛子住。如今人亦觸。還見妙處麼。妙觸非常觸與觸者合則為觸。離則非也。玄沙過嶺。磕著脚指頭。以至德山棒。豈不是妙觸。雖然恁麼。也須是七穿八穴始得。若只向身上摸索。有什麼交涉。爾若七穿八穴去。何須入浴。便於一毫端上現寶王剎。向微塵裏。轉大法輪。一處透得。千處萬處一時透。莫只守一窠一窟。一切處都是觀音入理之門。古人亦有聞聲悟道見色明心。若一人悟去。則故是。因甚十六開士。同時悟去。是故古人同修同證。同悟同解。雪竇拈他教意。令人去妙觸處會取。出他教眼頌。免得人去教網裏籠罩半醉半醒。要令人直下灑灑落落。頌云。了事衲僧消一箇
新字:如今人亦入浴亦洗水。也恁麼触。因甚却不悟。皆被塵境惑障。粘皮著骨。所以不能便惺惺去。若向這裏。洗亦無所得。触亦無所得。水因亦無所得。且道。是妙触宣明。不是妙触宣明。若向箇裏。直下見得。便是妙触宣明。成仏子住。如今人亦触。還見妙処麼。妙触非常触与触者合則為触。離則非也。玄沙過嶺。磕著脚指頭。以至徳山棒。豈不是妙触。雖然恁麼。也須是七穿八穴始得。若只向身上摸索。有什麼交渉。爾若七穿八穴去。何須入浴。便於一毫端上現宝王刹。向微塵裏。転大法輪。一処透得。千処万処一時透。莫只守一窠一窟。一切処都是観音入理之門。古人亦有聞声悟道見色明心。若一人悟去。則故是。因甚十六開士。同時悟去。是故古人同修同証。同悟同解。雪竇拈他教意。令人去妙触処会取。出他教眼頌。免得人去教網裏籠罩半酔半醒。要令人直下灑灑落落。頌云。了事衲僧消一箇
書き下し
如今の人も亦た入浴し亦た水を洗ひ、也た恁麼に触る。甚に因つてか却つて悟らざる。皆塵境に惑障せられ、皮に粘り骨に著く。所以に便ち惺惺として去ること能はず。若し這裏に向かつて、洗ふも亦た無所得、触るるも亦た無所得、水因も亦た無所得ならば、且く道へ、是れ妙触宣明か、是れ妙触宣明にあらざるか。若し箇裏に向かつて直下に見得せば、便ち是れ妙触宣明、成仏子住なり。如今の人も亦た触る、還た妙処を見るや。妙触は常の触にあらず、触者と合すれば則ち触と為し、離るれば則ち非なり。玄沙、嶺を過ぎて脚の指頭を磕著し、以て徳山の棒に至るまで、豈に是れ妙触にあらずや。恁麼なりと雖然も、也た須らく是れ七穿八穴して始めて得べし。若し只だ身上に向かつて摸索せば、什麼の交渉か有らん。爾若し七穿八穴し去らば、何ぞ入浴することを須ゐん。便ち一毫端上に於て宝王刹を現じ、微塵裏に向かつて大法輪を転ぜん。一処透り得れば、千処万処一時に透る。只だ一窠一窟を守ること莫れ。一切処は都て是れ観音入理の門なり。古人も亦た声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らむる有り。若し一人悟り去らば、則ち故より是なり。甚に因つてか十六開士、同時に悟り去る。是の故に古人は同じく修し同じく証し、同じく悟り同じく解す。雪竇は他の教意を拈じて、人をして妙触の処に去つて会取せしめ、他の教眼を出でて頌し、人の教網裏に去つて籠罩せられ半醉半醒なることを免れ得しめ、人をして直下に灑灑落落たらしめんことを要す。頌に云く、「了事の衲僧、一箇を消ゐる」。
現代語訳
今の人も入浴し、水で洗い、同じように触れている。なぜかえって悟らないのか。みな塵のような外界に惑わされ遮られて、皮にくっつき骨にまといついている。だからすぐにははっきり目覚められない。もしここで、洗っても得るところはなく、触れても得るところはなく、水の因縁にも得るところはないとしたら、さて言ってみよ、これは妙触宣明なのか、妙触宣明ではないのか。もしここでずばりと見て取れば、それがすなわち妙触宣明、成仏子住である。今の人も触れているが、その妙なるところが見えるか。妙触はふつうの触れ合いではない。触れる者と合わされば触れ合いとなり、離れればそうではない。玄沙が峠を越えるときに足の指をぶつけたことから、徳山の棒に至るまで、どれも妙触でないことがあろうか。とはいえ、縦横に突き抜けてこそはじめてよい。もしただ身体の上で手探りするだけなら、何の関わりがあろうか。おまえがもし縦横に突き抜けたなら、入浴する必要などあろうか。一本の毛の先に宝王の国土を現し、微塵の中で大いなる法輪を転じるだろう。一か所を透れば、千か所万か所が一時に透る。ただ一つの巣穴を守っていてはならない。あらゆる所がみな観音が理に入る門である。古人にも、声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らめた者がいる。もし一人が悟ったのなら、もとよりそれでよい。なぜ十六人の菩薩が同時に悟ったのか。だから古人は、ともに修めともに証し、ともに悟りともに解するのである。雪竇は経典の意を取り上げて、人に妙触のところでつかみ取らせ、経典の見方から抜け出して頌を作った。人が教えの網の中に閉じ込められて半ば酔い半ば醒めたようになるのを免れさせ、人をずばりとさっぱり自在にさせようとしたのである。頌に言う。「事を了えた禅僧は、一人いれば足りる」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第七十八則挙す。古へ十六開士有り、浴僧の時に於て例に随つて入浴し、忽ち水因を悟る。諸禅徳、作麼生か会せん。他は「妙触宣明、成仏子住」と道ふ。也た須らく七穿八穴して始めて得べし。
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『碧巌録』第七十八則「長連床上に脚を展べて臥す、夢中に曾て円通を悟ると説く。香水に洗ひ来たらば驀面に唾せん」。了事の衲僧、一箇を消ゐる。且く道へ、箇の什麼の事をか了得する。作家の禅客は、聊か挙著するを聞いて、剔起して便ち行く。恁麼なる衲僧に似たるは、只だ一箇を消ゐ得て、何ぞ群を成し隊を作すことを用ゐん。長連床上に脚を展べて臥す。古人道ふ、「明明として悟法無し、悟り了れば却つて人を迷はす。長く両脚を舒べて睡る、偽無く亦た真無し」と。所以に胸中に一事無く、飢ゑ来たれば飯を喫し、困じ来たれば眠る。雪竇の意に道ふ、爾若し入浴して妙触宣明を悟得すと説かば、這般の無事の衲僧の分上に在つては、只だ夢中に夢を説くに似たり。所以に道ふ、「夢中に曾て円通を悟ると説く」と。香水に洗ひ来たらば驀面に唾せん。恁麼なるに似たるは、只だ是れ悪水を驀頭に澆ぐ、更に箇の什麼の円通をか説かん。雪竇道ふ、這般の漢に似たるは、正に好し驀頭驀面に唾せんと。山僧道ふ、土上に泥を加へて又た一重。
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『碧巌録』第七十八則楞厳会上に、跋陀婆羅菩薩、十六開士と与に各おの梵行を修し、乃ち各おの証する所の円通法門の因を説く。此れも亦た二十五円通の一数なり。他は浴僧の時に因つて、例に随つて入浴し、忽ち水因を悟つて云く、「既に塵を洗はず、亦た体を洗はず」と。且く道へ、箇の什麼をか洗ふ。若し会得し去らば、中間安然として、無所有を得ん。千箇万箇も、更に近傍し得ず。所謂無所得を以て是れ真般若とす、若し所得有らば、是れ相似の般若なり。見ずや達磨、二祖に謂つて云く、「心を将ち来たれ、汝が与に安んぜん」。二祖云く、「心を覓むるに了に不可得なり」。這裏の些子、是れ衲僧の性命の根本なり。更に総に如許多の葛藤を消ゐず、只だ箇の「忽ち水因を悟る」と道ふことを消ゐて、自然に了当す。既に塵を洗はず、亦た体を洗はず、且く道へ、箇の什麼をか悟る。這般の田地に到つては、一点も也た著け得ず。箇の仏の字を道ふも、也た須らく諱却すべし。他は道ふ、「妙触宣明、成仏子住」と。宣は則ち是れ顕なり、妙触は是れ明なり。既に妙触を悟つて仏子住を成す、即ち仏地に住するなり。
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『碧巌録』第八十八則後に僧有り、雲門に挙似す。門便ち他の意を会して云く、「汝礼拝せよ」。僧礼拝して起つ。門、拄杖を以て挃く。這の僧退後す。門云く、「汝は是れ患盲にあらず」。復た喚ぶ、「近前し来れ」。僧近前す。門云く、「汝は是れ患聾にあらず」。乃ち云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。門云く、「汝は是れ患啞にあらず」。其の僧此に於て省有り。当時若し是れ箇の漢ならば、他の「礼拝せよ」と道ふを等ちて、便ち与に禅床を掀倒せん。豈に許多の葛藤有るを見んや。且く道へ、雲門と玄沙と会する処、是れ同か是れ別か。他の両人の会する処、都て只だ一般なり。看よ他の古人出で来つて千万種の方便を作す、意は鉤頭上に在り。多少の苦口ぞ、只だ諸人をして各各此の一段の事を明らめしめんとす。五祖老師云く、「一人は説き得て却つて会せず、一人は却つて会して説き得ず。二人若し来参せば、如何が他を辨じ得ん。若し這の両人を辨じ得ずんば、管取す人の為に粘を解き縛を去ること得ざること在り。若し辨じ得ば、纔かに入門を見て、我れ便ち草鞋を著けて爾が肚裏に向つて走ること幾遭し了らん。猶自ほ省みずんば、什麼の碗をか討めて出で去らん」と。且く盲聾瘖啞の会を作すこと莫くんば好し。若し恁麼に計較せば、所以に道ふ、「眼に色を見ること盲に如き等しく、耳に声を聞くこと聾に如き等し」と。又た道ふ、「満眼に色を視ず、満耳に声を聞かず。文殊は常に目に触れ、観音は耳根を塞ぐ」と。這裏に到つて、眼に見ること盲の如くに相似、耳に聞くこと聾の如くに相似て、方に能く玄沙の意と多くを争はず。諸人還た盲聾瘖啞底の漢子の落処を識るや。看取せよ、雪竇の頌に云く、
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『碧巌録』第八十九則且く道へ、遍身是なる底が是か、通身是なる底が是か。爛泥に似たりと雖も却つて脱灑なり。如今の人、多く去いて情解を作して道ふ、「遍身底は是ならず、通身底は是なり」と。只管に他の古人の言句を咬み、古人の言下に於て死し了る。殊に知らず、古人の意は言句上に在らず、此れ皆な是れ事已むことを獲ずして之を用ゐることを。如今注脚を下し、格を立てて則ち道ふ、「若し此の公案を透得せば、便ち罷参の会を作す」と。手を以て渾身を摸り、灯籠露柱を摸りて、尽く通身の話の会を作す。若し恁麼に会せば、他の古人を壊ること少なからず。所以に道ふ、他は活句に参じて死句に参ぜずと。須らく是れ情塵意想を絶し、浄裸裸、赤灑灑地にして、方に大悲の話を見得す可し。見ずや、曹山、僧に問ふ、「物に応じて形を現ずること水中の月の如き時如何」。僧云く、「驢の井を覰るが如し」。山云く、「道ふことは即ち殺だ道へども、只だ八成を道ひ得たり」。僧云く、「和尚又た作麼生」。山云く、「井の驢を覷るが如し」。便ち此の意に同じ。爾若し語上に去いて見ば、総に道吾・雲巌の圏繢を出で得ず。雪竇は作家、更に句下に向つて死せず、直に頭上に向つて行く。頌に云く、
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『碧巌録』第八則雪竇若し恁麼に慈悲もて頌出して人をして見せしめずんば、争でか善知識と名づくることを得ん。古人此の如くなる、一一皆是れ事已むことを獲ず。蓋し後学の他の言句に著いて、転た情解を生ずるが為に、所以に古人の意旨を見ず。如今忽ち箇の出で来つて、禅床を掀倒し、大衆を喝散する有るも、他を怪しむことを得ず。然も此の如くなりと雖も、也た須らく実に這の田地に到つて始めて得べし。雪竇道ふ、「千古対無し」。他只だ道ふ、「看よ翠巌が眉毛在りや」。什麼の奇特の処か有つて、便乃ち千古対無き。須らく知るべし、古人一言半句を吐き出す、是れ造次にあらざることを。須らく是れ乾坤を定むる底の眼有つて始めて得べし。雪竇一言半句を著くるも、金剛王宝剣の如く、踞地の獅子の如く、石火を撃つが如く、閃電光に似たり。若し是れ頂門に眼を具せずんば、争でか能く他の古人の落処を見ん。這箇の示衆、直に千古対無きことを得て、徳山の棒、臨済の喝に過ぎたり。
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