碧巌録 / 第二十五則
眼裏塵沙耳裏土 千峯萬峯不肯住落花流水太茫茫剔起眉毛何處去雪竇頌得甚好。有轉身處。不守一隅。便道眼裏塵沙耳裏土。此一句頌蓮花峯庵主。衲僧家到這裏。上無攀仰下絕已躬。於一切時中如癡似兀。不見南泉道。學道之人。如癡鈍者也難得。禪月詩云。常憶南泉好言語。如斯癡鈍者還希。法燈云。誰人知此意。令我憶南泉。南泉又道。七百高僧。盡是會佛法底人。唯有盧行者不會佛法。只會道。所以得他衣鉢。且道佛法與道相去多少。雪竇拈云。眼裏著沙不得。耳裏著水不得。或若有箇漢。信得及把得住。不受人瞞。祖佛言教是什麼熱碗鳴聲。便請高掛鉢囊。拗折拄杖。管取一員無事道人。
新字:眼裏塵沙耳裏土 千峯万峯不肯住落花流水太茫茫剔起眉毛何処去雪竇頌得甚好。有転身処。不守一隅。便道眼裏塵沙耳裏土。此一句頌蓮花峯庵主。衲僧家到這裏。上無攀仰下絶已躬。於一切時中如痴似兀。不見南泉道。学道之人。如痴鈍者也難得。禅月詩云。常憶南泉好言語。如斯痴鈍者還希。法灯云。誰人知此意。令我憶南泉。南泉又道。七百高僧。尽是会仏法底人。唯有盧行者不会仏法。只会道。所以得他衣鉢。且道仏法与道相去多少。雪竇拈云。眼裏著沙不得。耳裏著水不得。或若有箇漢。信得及把得住。不受人瞞。祖仏言教是什麼熱碗鳴声。便請高掛鉢嚢。拗折拄杖。管取一員無事道人。
書き下し
眼裏の塵沙、耳裏の土、千峰万峰住まることを肯ぜず。落花流水太だ茫茫、眉毛を剔起して何れの処にか去る。雪竇頌し得て甚だ好し。転身の処有って、一隅を守らず。便ち道ふ、「眼裏の塵沙、耳裏の土」と。此の一句は蓮華峰庵主を頌す。衲僧家這裏に到って、上に攀仰無く、下に己躬を絶し、一切時中に於て癡の如く兀に似たり。見ずや、南泉道ふ、「学道の人、癡鈍の者の如きも也た得難し」と。禅月の詩に云く、「常に憶ふ南泉の好言語、斯の如き癡鈍の者還た希なり」と。法灯云く、「誰人か此の意を知る、我をして南泉を憶はしむ」と。南泉又道ふ、「七百の高僧、尽く是れ仏法を会する底の人なり。唯だ盧行者のみ有って仏法を会せず、只だ道を会す。所以に他の衣鉢を得たり」と。且く道へ、仏法と道と相去ること多少ぞ。雪竇拈じて云く、「眼裏に沙を著け得ず、耳裏に水を著け得ず。或若し箇の漢有って、信得して及び把得して住し、人の瞞を受けずんば、祖仏の言教、是れ什麼の熱碗の鳴声ぞ。便ち請ふ高く鉢嚢を掛け、拄杖を拗折せよ。管取す一員の無事の道人ならん」。
現代語訳
眼の中には塵や砂、耳の中には土。千峰万峰にもとどまろうとしない。散る花と流れる水はまことに果てしない。眉を吊り上げて見ても、どこへ行ったのか。雪竇の頌は実によくできている。身を転じるところがあって、一隅を守っていない。そこで「眼の中には塵や砂、耳の中には土」と言う。この一句は蓮華峰の庵主を頌したものである。禅僧はここに至ると、上にはすがって仰ぐものがなく、下には自分の身さえ断ち切って、あらゆる時に愚か者のように、ぼんやりした者のようである。見たことがないか。南泉は言った。「道を学ぶ人で、愚かで鈍い者のようであるのもまた得がたい」と。禅月の詩にいう。「いつも思い出す南泉のよい言葉、このように愚かで鈍い者はまれである」と。法灯は言った。「誰がこの意を知るか。わたしに南泉を思い出させる」と。南泉はまた言った。「七百人の高僧は、みな仏法を会得した人々であった。ただ盧行者だけが仏法を会得せず、ただ道を会得していた。だから五祖の衣鉢を得たのだ」と。さあ言え、仏法と道とはどれほど隔たっているのか。雪竇はこれを取り上げて言った。「眼の中には砂を入れられない。耳の中には水を入れられない。もしここに一人の男がいて、信じきり、つかんで離さず、人にだまされないなら、仏祖の教えなど、熱い碗が鳴る音のようなものだ。どうか鉢袋を高く掛け、拄杖をへし折ってしまえ。間違いなく一人の無事の道人であろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第二十五則又云く、「眼裏に須弥山を著け得、耳裏に大海水を著け得。一般の漢有って、人の商量を受く。祖仏の言教、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。却って須らく鉢嚢を挑起し、拄杖を横担すべし。亦是れ一員の無事の道人なり」。復た云く、「恁麼も也た得ず、不恁麼も也た得ず。然る後交渉没し。三員の無事の道人の中、一人を選んで師と為さんと要す」。正に是れ這般の生鉄鋳就底の漢なり。何が故ぞ。或いは悪境界に遇ひ、或いは奇特の境界に遇ふも、他の面前に到れば、悉く皆夢の如くに相似たり。六根有ることを知らず、亦旦暮有ることを知らず。直饒ひ這般の田地に到るも、切に忌む寒灰死火を守って、黒漫漫の処に打入し去ることを。也た須らく是れ転身の一路有って始めて得べし。見ずや、古人道ふ、「寒巌に異草の青きを守ること莫れ。白雲に坐却せば宗妙ならず」と。所以に蓮華峰庵主道ふ、「他の途路に力を得ざるが為なり」と。直に須らく是れ千峰万峰に去って始めて得べし。且く道へ、什麼を喚んでか千峰万峰と作す。雪竇只だ他の「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」と道ふを愛す。所以に頌出す。且く道へ、什麼の処に向かってか去る。還た去処を知り得る者有りや。「落花流水太だ茫茫」。落花紛紛、流水茫茫、閃電の機、眼前是れ什麼ぞ。「眉毛を剔起して何れの処にか去る」。雪竇什麼と為てか也た他の去処を知らざる。只だ山僧適来払子を挙すと道ふが如き、且く道へ、即今什麼の処にか在る。爾諸人若し見得せば、蓮華峰庵主と同参ならん。其れ或いは未だ然らずんば、三条椽下、七尺単前に、試みに去って参詳し看よ。
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『碧巌録』第六十一則他の三家村裏の人、争でか恁麼の事有ることを知らん。一塵を立てざれば家国喪亡す。風颯颯地。野老什麼の為にか出で来たりて謳歌する。只だ家国喪亡するが為なり。洞下には之を転変の処と謂ふ。更に仏無く衆生無く、是無く非無く、好無く悪無く、音響蹤跡を絶す。所以に道ふ、「金屑貴しと雖も、眼に落つれば瞖と成る」と。又云く、「金屑は眼中の瞖、衣珠は法上の塵。己霊すら猶ほ重んぜず、仏祖是れ何人ぞ」と。七穿八穴、神通妙用も奇特と為さず。箇裏に到りては、衲被蒙頭して万事休す。此の時、山僧都て会せず。若し更に心を説き性を説き、玄を説き妙を説かば、都て用不著。何が故ぞ。他家自ら神仙の境有り。南泉示衆して云く、「黄梅の七百の高僧、尽く是れ仏法を会する底の人なるも、他の衣鉢を得ず。唯だ盧行者のみ仏法を会せず、所以に他の衣鉢を得たり」と。又云く、「三世の諸仏は有ることを知らず、狸奴白牯却つて有ることを知る」と。野老或いは顰蹙し、或いは謳歌す、且く道へ作麼生か会せん。且く道へ、他は什麼の眼を具してか却つて恁麼なる。須らく知るべし、野老の門前、別に条章有ることを。雪竇双べ拈じ了りて、却つて拄杖を拈じて云く、「還た同生同死底の衲僧有りや」と。当時若し箇の漢有りて出で来たり、一句を道得して互ひに賓主と為らば、雪竇這の老漢の後面に自ら胸を点ずるを免れ得ん。
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『碧巌録』第二十五則這般の事、若し是れ通方の作者ならば、古人の実処に到って、自然に力を費やさず。他人の他底を搆へ得る無きを見て、復た自ら徴して云く、「畢竟如何」。又奈何ともし得ず。自ら云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。這箇の意又作麼生。且く道へ、什麼の処を指して地頭と為す。妨げず句中に眼有り、言外に意有ることを。自ら起き自ら倒れ、自ら放ち自ら収む。豈に見ずや、厳陽尊者、路に一僧に逢ひ、拄杖を拈起して云く、「是れ什麼ぞ」。僧云く、「識らず」。厳云く、「一条の拄杖も也た識らず」。厳復た拄杖を以て地上に劄すること一下して云く、「還た識るや」。僧云く、「識らず」。厳云く、「土窟子も也た識らず」。厳復た拄杖を以て担って云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。厳云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる。雪竇頌有り、云く、「誰か機に当たって挙して賺かざる、亦還た希なり。峭峻を摧残し、玄微を銷鑠す。重関曾て巨いに闢く、作者未だ同じく帰せず。玉兎乍ち円かに乍ち欠け、金烏飛ぶに似て飛ばず。盧老知らず何れの処にか去る、白雲流水共に依依たり」。什麼に因ってか山僧道ふ、「脳後に腮を見ば、与に往来すること莫れ」と。纔かに計較を作さば、便ち是れ黒山鬼窟裏に活計を作す。若し見得して徹し、信得して及ばば、千人万人も自然に羅籠すれども住まらず、奈何ともし得ず。動著し拶著すれば、自然に殺有り活有り。雪竇他の意を会して「直に千峰万峰に入り去る」と道ふ、方に始めて頌を成す。落処を知らんと要せば、看取せよ雪竇の頌に云く。
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『碧巌録』第九十六則雪竇泥仏水を渡らずを頌するに、什麼としてか、却つて這の因縁を引き来つて用ゐる。他は意根下に一星の事無きに参得して、浄裸裸地にして方に頌し得ること此の如し。五祖尋常人をして此の三頌を看せしむ。豈に見ずや、洞山初和尚に頌有りて衆に示して云く、「五台山上雲飯を蒸し、古仏堂前狗天に尿す。刹竿頭上䭔子を煎じ、三箇の胡孫夜銭を簸る」。又杜順和尚道ふ、「懐州の牛禾を喫し、益州の馬腹脹る。天下に医人を覓めて、猪の左膊上に灸す」。又傅大士頌して云く、「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る。人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず」。又云く、「石人の機汝に似たり、也た巴歌を唱ふることを解す。汝若し石人に似たらば、雪曲応に須らく和すべし」。若し此の語を会得せば、便ち他の雪竇の頌を会せん。足。
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『碧巌録』第二十五則且く爾諸人に問ふ、拄杖子は是れ衲僧の尋常用ふる底、什麼に因ってか却って途路に力を得ずと道ふ。古人此に到って住まることを肯ぜず。其の実、金屑貴しと雖も、眼に落つれば翳と成る。石室善道和尚、当時沙汰に遭ふ。常に拄杖を以て衆に示して云く、「過去の諸仏も也た恁麼、未来の諸仏も也た恁麼、現前の諸仏も也た恁麼」と。雪峰一日、僧堂の前に拄杖を拈じて衆に示して云く、「這箇は只だ中下根の人の為にす」。時に僧有り、出でて問うて云く、「忽ち上上の人の来たるに遇ふ時如何」。峰拄杖を拈じて便ち去る。雲門云く、「我は即ち雪峰の打破して狼籍なるに似ず」。僧問ふ、「未審し和尚如何」。雲門便ち打つ。大凡参問も也た許多の事無し。爾が外に山河大地有りと見、内に見聞覚知有りと見、上に諸仏の求むべき有りと見、下に衆生の度すべき有りと見るが為なり。直に須らく一時に吐却すべし。然る後、十二時中、行住坐臥、打して一片と成す。一毛頭上に在りと雖も、寛きこと大千沙界の若く、鑊湯炉炭の中に居すと雖も、安楽国土に在るが如く、七珍八宝の中に居すと雖も、茅茨蓬蒿の下に在るが如し。
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『碧巌録』第六十九則雪竇何が故にか却つて太だ直なりと言ふ。若し是れ太だ直ならば則ち中らず。既に是れ樹を遶る、何が故にか却つて太だ直なりと云ふ。雪竇其の意を借りて、妨げず用ゐ得て好きことを。此の事は春秋に出づ。有る者は道ふ、「樹を遶るは是れ円相なり」と。若し真箇に此の如くならば、蓋し語の宗旨を識らず、太だ直なる処を知らず。三箇の老漢、途を殊にして同じく一揆に帰し、一斉に太だ直なり。若し是れ他の去処を識得せば、七縦八横、方寸を離れず。百川流れを異にして、同じく大海に帰す。所以に南泉道ふ、「恁麼ならば則ち去かじ」と。若し是れ衲僧の正眼もて覷著せば、只だ是れ精魂を弄するのみ。若し喚んで精魂を弄すと作さば、却つて是れ精魂を弄するにあらず。五祖先師道ふ、「他の三人は是れ慧炬三昧、荘厳王三昧なり」と。此の如くなりと雖然も、女人拝を作すも、他は終に女人拝の会を作さず。円相を画くと雖も、他は終に円相の会を作さず。既に恁麼に会せずんば、又作麼生か会せん。雪竇道ふ、「千箇と万箇と、是れ誰か曾て的に中つる」と。能く幾箇か有りて百発百中せん。「相呼び相喚びて帰りなんいざ」、南泉の「恁麼ならば則ち去かじ」と道ふを頌す。南泉此れより去かず。故に云く、「曹渓路上登陟を休めよ」と。荊棘林を滅却す。雪竇把不定にして、復た云く、「曹渓の路は坦平なり、什麼としてか登陟を休むる」と。曹渓の路は塵を絶し迹を絶し、露裸裸、赤灑灑、平坦坦、翛然地なり。什麼としてか却つて登陟を休むる。各自脚下を看よ。
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