葉隠 / 聞書第二
氣力さへ強ければ、詞にても身の行ひにても、道に叶ふ様になるものなり。然れども、心に問はれたる時、一句もいかぬものなり。よき目付なりと。
新字:気力さへ強ければ、詞にても身の行ひにても、道に叶ふ様になるものなり。然れども、心に問はれたる時、一句もいかぬものなり。よき目付なりと。
書き下し
気力さへ強ければ、詞(ことば)にても身の行ひにても、道に叶ふ様になるものなり。然れども、心に問はれたる時、一句もいかぬものなり。よき目付(めつけ)なりと。
現代語訳
気力さえ強ければ、言葉においても身の行いにおいても、自然と道理にかなうようになるものである。しかしながら、いざ自分の心に問いただされたときには、一言も返せぬものだ。これはよい戒め(自らを見張る目付役)である。
解説
気力が充実してさえいれば、言葉も行いも自然と道理にかなってくる、とまず説きます。外に表れる立ち居振る舞いは、気力という土台があってこそ整う、というのです。しかし後半で常朝は反転させます。いざ自分の心に静かに問いただされると、一言も申し開きができない——外面がどれほど整っていても、内心の後ろ暗さは自分自身が一番よく知っている、というのです。この自問こそが「よき目付」、つまり自らを監視する最良の役目だと結びます。他人の目より自分の心の目を恐れよ、という自己省察の教えであり、良心や誠実さを問う普遍的な戒めとして、現代にも深く響きます。
この章句が説くこと
葉隠気力自己省察良心目付誠実
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