葉隠 / 聞書第二
生駒壹岐守殿家老前野助左衛門惡行に付、生駒將監公儀へ訴へ、御糺明の上、助左衛門御成敗、生駒殿領知召上げられ、一萬石下され候。この聞書讀み申し候處、將監、助左衛門忠義ながら、主の家を崩したるなり。訴へずば二三年なりともたへ申すべし。その内に如何樣なる變もこれあり候はゞ、諸の事は餘の家老共に申し含め、むきむきに打果たすべき事に候。斯樣の事に、牛の角直すとて、牛を殺す仕方あるものなり。その時は、家の疵になるまじく候。一人御迦し候は、如何の仔細に候や。』と申し候へば、『御意見證議のある事に、一人御迦し候は、如何の仔細に候や。』とあるのは、惡事を銘打つて世上に出す樣なるものなり。大人は大抵の曲にては國を失ふ事はなし。多分我が儘に育てゝ曲あるに定りたるものなり。どしめき候時、世上に洩れ聞え、國を失ふ事あり。先年の詮議相止み候が、御國少しも別條これなく候。』と申され候由。大方諫言と申すには、佞臣が我が手柄立てゝか、父後見などありてする事なり。忠義の諫言と申すは、よくよく御味方になりて御名の立たざる樣に仕るものなり。若し御請けなされざる時は、いよいよ御味方になりて御名の立たざる樣に仕るものなり。若し御請けなされざる時は、後向き申すが多く候。どしめき廻り候は、不忠の至極に候。又御家などは、根元不思議の御建立故か、惡しき樣にても亦自然とよき樣に相成り候となり。
新字:生駒壱岐守殿家老前野助左衛門悪行に付、生駒将監公儀へ訴へ、御糺明の上、助左衛門御成敗、生駒殿領知召上げられ、一万石下され候。この聞書読み申し候処、将監、助左衛門忠義ながら、主の家を崩したるなり。訴へずば二三年なりともたへ申すべし。その内に如何様なる変もこれあり候はゞ、諸の事は余の家老共に申し含め、むきむきに打果たすべき事に候。斯様の事に、牛の角直すとて、牛を殺す仕方あるものなり。その時は、家の疵になるまじく候。一人御迦し候は、如何の仔細に候や。』と申し候へば、『御意見證議のある事に、一人御迦し候は、如何の仔細に候や。』とあるのは、悪事を銘打つて世上に出す様なるものなり。大人は大抵の曲にては国を失ふ事はなし。多分我が儘に育てゝ曲あるに定りたるものなり。どしめき候時、世上に洩れ聞え、国を失ふ事あり。先年の詮議相止み候が、御国少しも別条これなく候。』と申され候由。大方諫言と申すには、佞臣が我が手柄立てゝか、父後見などありてする事なり。忠義の諫言と申すは、よくよく御味方になりて御名の立たざる様に仕るものなり。若し御請けなされざる時は、いよいよ御味方になりて御名の立たざる様に仕るものなり。若し御請けなされざる時は、後向き申すが多く候。どしめき廻り候は、不忠の至極に候。又御家などは、根元不思議の御建立故か、悪しき様にても亦自然とよき様に相成り候となり。
書き下し
生駒壱岐守(いきのかみ)殿家老前野助左衛門(すけざえもん)悪行に付き、生駒将監(しょうげん)公儀へ訴え、御糺明(きゅうめい)の上、助左衛門御成敗、生駒殿領知(りょうち)召し上げられ、一万石下され候。この聞書(ききがき)読み申し候ところ、将監、助左衛門忠義ながら、主の家を崩したるなり。訴えずば二、三年なりとも耐え申すべし。その内に如何様(いかよう)なる変もこれあり候わば、諸(もろもろ)の事は余(よ)の家老共に申し含め、むきむきに打ち果たすべき事に候。斯様(かよう)の事に、牛の角直すとて、牛を殺す仕方あるものなり。その時は、家の疵(きず)になるまじく候。大人(たいじん)は大抵の曲(きょく)にては国を失う事はなし。多分我が儘(まま)に育てて曲あるに定まりたるものなり。どしめき候時、世上に洩れ聞え、国を失う事あり。先年の詮議(せんぎ)相止み候が、御国少しも別条これなく候、と申され候由。大方諫言(かんげん)と申すには、佞臣(ねいしん)が我が手柄立ててか、父後見(うしろみ)などありてする事なり。忠義の諫言と申すは、よくよく御味方になりて御名の立たざる様に仕るものなり。もし御請けなされざる時は、いよいよ御味方になりて御名の立たざる様に仕るものなり。もし御請けなされざる時は、後向き申すが多く候。どしめき廻り候は、不忠の至極に候。また御家などは、根元不思議の御建立(こんりゅう)故か、悪しき様にても、また自然とよき様に相成り候となり。
現代語訳
生駒壱岐守の家老・前野助左衛門の悪行について、生駒将監が幕府へ訴え出た。詮議の結果、助左衛門は処罰され、生駒家は領地を召し上げられて、一万石を与えられるにとどまった。この聞書を読むに、将監は助左衛門への忠義からとはいえ、結局は主家を崩してしまったのだ。訴え出ずに二、三年でも耐えるべきだった。その間に何か異変が起これば、諸事を他の家老たちに含め置き、それぞれの方面から始末をつけるべきだった。こうしたことには、「牛の角を直そうとして牛を殺す」やり方があるものだ。そうすれば家の傷にはならなかったろう。そもそも主君(大人)は、たいていの悪ぐらいでは国を失いはしない。多くはわがままに育って悪癖がついているものだ。それが騒ぎ立てられて世間に洩れ聞こえると、国を失うことになる。先年の詮議もやんだが、御国には少しも変わりはなかった、と将監は言われたという。おおかた諫言というものは、佞臣が自分の手柄を立てようとしてか、あるいは後見人などがついてするものだ。忠義の諫言というのは、あくまで主君の味方になって、その悪名が立たないように取り計らうものである。もし聞き入れられないときは、なおさら味方になって悪名が立たぬよう努めるものだ。聞き入れられないからと背を向ける者が多い。騒ぎ立てて回るのは、不忠の極みである。また御家というものは、そもそも不思議な由来で建てられたものゆえか、悪いように見えても、また自然と良いようになっていくものだ、とのことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・正諫易に曰わく、「王臣蹇蹇たるは、躬の故に匪ず」と。人臣の蹇蹇として難しと為す所以にして、其の君を諫むる者は身の為に非ざるなり、将に以て君の過を匡し、君の失を矯めんと欲すればなり。君に過失有るは、危亡の萌なり。君の過失を見て諫めざるは、是れ君の危亡を軽んずるなり。夫れ君の危亡を軽んずる者は、忠臣の忍びて為さざる所なり。三たび諫めて用いられざれば則ち去り、去らざれば則ち身亡ぶ。身亡ぶは、仁人の為さざる所なり。是の故に諫に五有り。一に曰わく正諫、二に曰わく降諫、三に曰わく忠諫、四に曰わく戇諫、五に曰わく諷諫。孔子曰わく、「吾は其れ諷諫に従わんか」と。夫れ諫めざれば則ち君を危うくし、固く諫むれば則ち身を危うくす。其の君を危うくせんよりは、寧ろ身を危うくせよ。身を危うくして終に用いられざれば、則ち諫も亦た功無し。智者は君を度り時を権り、其の緩急を調えて其の宜しきに処る。上は敢えて君を危うくせず、下は以て身を危うくせず、故に国に在りて国危うからず、身に在りて身殆うからず。昔陳の霊公は泄冶の諫を聴かずして之を殺し、曹羈は三たび曹君を諫めて聴かれずして去る。春秋の義を序するに賢を倶にすと雖も、曹羈は礼に合えり。
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葉隠・聞書第二将監(しょうげん)常々申し候は、「諫(かん)と言う詞(ことば)、早や私(わたくし)なり。諫はなきものなり」と申し候。また一度も理詰(りづ)めにて申し上げたる事なし。御序(おついで)に潜(ひそ)かに申し上げ候由。前々(まえまえ)数馬(かずま)も終(つい)に御用と申して罷(まか)り出で、御意見申し上げたる事なし。外に存じたる者これなく候故、御誤(おんあやまり)終に知れ申さず候。理詰めにて申し上ぐるは、皆我が忠節だて、主君の悪名を顕し申すに付き、大不忠なり。御請けなされざる時は、いよいよ御悪名になり、申し上げざるには劣るにて候。御請けなされざる時は、力及ばざる儀と存じ果て、いよいよ隠密致し、色々工夫を以て又申し上げ、又御請けなされず御悪事これある時、いよいよ御味方仕り、何卒(なにとぞ)世上に知れ申さざる様に仕るべき事なりと。
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葉隠・聞書第二事によりては、主君の仰付(おおせつ)けをも、諸人の愛想(あいそ)をも尽(つ)かして、だだを踏廻(ふみまわ)りて打破(うちやぶ)つのけねばならぬ事あり。畢竟(ひっきょう)は、御為一偏(おんためいっぺん)の心入(こころい)れさえ出来(しゅったい)すれば、紛(まぎ)れぬものなり。何某(なにがし)、御前様附(ごぜんさまづき)にて御死去の時、上(かみ)より差留(さしと)めらるると申し候て、髪を剃り申されず、表より相附(あいつ)けられ候人さえ剃髪(ていはつ)仕り、無興(ぶきょう)に候故、附役(つけやく)共剃り申し候。斯様(かよう)の時などは、御意(ぎょい)にても差図(さしず)にても聞入(ききい)れず、上にも、御家老衆も御存じあるまじく候、八並武蔵(やつなみむさし)覚悟仕り候。上の御外聞(ごがいぶん)にて候えば、承引(しょういん)仕らずと申し切る筈(はず)となり。
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呂氏春秋・務大④鄭君、被瞻に問いて曰く、「聞く、先生の義は、君に死せず、君に亡せず、と。信に之れ有るか。」被瞻對えて曰く、「之れ有り。夫れ言聽かれず、道行われざれば、則ち固より君に事えざるなり。若し言聽かれ道行わるれば、又何ぞ死亡せんや。」故に被瞻の死亡せざるや、其の死亡する者に賢れり。
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貞観政要・忠義貞観五年、太宗侍臣に謂いて曰く、「忠臣烈士、何の代か之れ無からん。公等、隋朝の誰か忠貞たるを知るか」と。王珪曰く、「臣聞く、太常丞元善達、京に在りて留守す。群賊の縦横するを見て、遂に騎を転じて遠く江都に詣り、煬帝を諫め、京師に還らしめんとす。既に其の言を受けず。後に更に涕泣して極諫す。煬帝怒りて、乃ち遠く使わして兵を追わしむ。身は瘴癘の地に死す。虎賁郎中独孤盛有り。江都に在りて宿衛す。宇文化及逆を起こす。盛は惟だ一身のみ。抗拒して死す」と。太宗曰く、「屈突通は隋の将と為り、国家と潼関に戦う。京城の陥るを聞き、乃ち兵を引きて東に走る。義兵、桃林に追及す。朕は其の家人を遣わして往きて招慰せしむ。遽かに其の奴を殺す。又た其の子を遣わして往かしむ。乃ち云う、『我は隋家の駆使を蒙り、已に両帝に事う。今は吾が死節の秋なり。汝は旧は我が家に於て父子と為るも、今は則ち我が家に於て仇讎と為る』と。因りて之を射る。其の子避け走る。領する所の士卒多く潰散す。通は惟だ一身のみ。東南に向かいて慟哭し哀を尽くす。曰く、『臣は国恩を荷(にな)い、任は将帥に当たる。智力倶に尽き、此の敗亡を致す。臣が誠を国に竭くさざるに非ず』と。言尽きて、追兵之を擒(とら)う。太上皇其の官を授くるも、毎に疾に託して固辞す。此の忠節、嘉尚するに足るべし」と。因りて所司に敕し、大業中の直諫して誅せられし者の子孫を采訪し、聞奏せしむ。
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『秘本玉くしげ』下 互に目附役然るを、たとひ己がかかはらぬ他の役義のうへの事にもせよ、宜しからずと思ふ事あらば、互に心をそへて相助け、又事によりては早速に申出るやうにあらば、これ諸役人みなたがひに目附役となること也。