貞観政要 / 忠義
貞觀五年,太宗謂侍臣曰:「忠臣烈士,何代無之。公等知隋朝誰為忠貞?」王珪曰:「臣聞太常丞元善達在京留守,見群賊縱橫,遂轉騎遠詣江都,諫煬帝,令還京師。既不受其言,後更涕泣極諫,煬帝怒,乃遠使追兵,身死瘴癘之地。有虎賁郎中獨孤盛在江都宿衛,宇文化及起逆,盛惟一身,抗拒而死。」太宗曰:「屈突通為隋將,共國家戰於潼關,聞京城陷,乃引兵東走。義兵追及於桃林,朕遣其家人往招慰,遽殺其奴。又遣其子往,乃云:『我蒙隋家驅使,已事兩帝,今者吾死節之秋,汝舊於我家為父子,今則於我家為仇讎。』因射之,其子避走,所領士卒多潰散。通惟一身,向東南慟哭盡哀。曰:『臣荷國恩,任當將帥,智力俱盡,致此敗亡,非臣不竭誠於國。』言盡,追兵擒之。太上皇授其官,每讬疾固辭。此之忠節,足可嘉尚。」因敕所司,采訪大業中直諫被誅者子孫,聞奏。
新字:貞観五年,太宗謂侍臣曰:「忠臣烈士,何代無之。公等知隋朝誰為忠貞?」王珪曰:「臣聞太常丞元善達在京留守,見群賊縦横,遂転騎遠詣江都,諫煬帝,令還京師。既不受其言,後更涕泣極諫,煬帝怒,乃遠使追兵,身死瘴癘之地。有虎賁郎中独孤盛在江都宿衛,宇文化及起逆,盛惟一身,抗拒而死。」太宗曰:「屈突通為隋将,共国家戦於潼関,聞京城陥,乃引兵東走。義兵追及於桃林,朕遣其家人往招慰,遽殺其奴。又遣其子往,乃云:『我蒙隋家駆使,已事両帝,今者吾死節之秋,汝旧於我家為父子,今則於我家為仇讎。』因射之,其子避走,所領士卒多潰散。通惟一身,向東南慟哭尽哀。曰:『臣荷国恩,任当将帥,智力倶尽,致此敗亡,非臣不竭誠於国。』言尽,追兵擒之。太上皇授其官,毎讬疾固辞。此之忠節,足可嘉尚。」因勅所司,采訪大業中直諫被誅者子孫,聞奏。
書き下し
貞観五年、太宗侍臣に謂いて曰く、「忠臣烈士、何の代か之れ無からん。公等、隋朝の誰か忠貞たるを知るか」と。王珪曰く、「臣聞く、太常丞元善達、京に在りて留守す。群賊の縦横するを見て、遂に騎を転じて遠く江都に詣り、煬帝を諫め、京師に還らしめんとす。既に其の言を受けず。後に更に涕泣して極諫す。煬帝怒りて、乃ち遠く使わして兵を追わしむ。身は瘴癘の地に死す。虎賁郎中独孤盛有り。江都に在りて宿衛す。宇文化及逆を起こす。盛は惟だ一身のみ。抗拒して死す」と。太宗曰く、「屈突通は隋の将と為り、国家と潼関に戦う。京城の陥るを聞き、乃ち兵を引きて東に走る。義兵、桃林に追及す。朕は其の家人を遣わして往きて招慰せしむ。遽かに其の奴を殺す。又た其の子を遣わして往かしむ。乃ち云う、『我は隋家の駆使を蒙り、已に両帝に事う。今は吾が死節の秋なり。汝は旧は我が家に於て父子と為るも、今は則ち我が家に於て仇讎と為る』と。因りて之を射る。其の子避け走る。領する所の士卒多く潰散す。通は惟だ一身のみ。東南に向かいて慟哭し哀を尽くす。曰く、『臣は国恩を荷(にな)い、任は将帥に当たる。智力倶に尽き、此の敗亡を致す。臣が誠を国に竭くさざるに非ず』と。言尽きて、追兵之を擒(とら)う。太上皇其の官を授くるも、毎に疾に託して固辞す。此の忠節、嘉尚するに足るべし」と。因りて所司に敕し、大業中の直諫して誅せられし者の子孫を采訪し、聞奏せしむ。
現代語訳
貞観五年、太宗が側近の臣に言った。「忠臣や烈士は、どの時代にもいる。諸君は、隋朝で誰が忠貞だったか知っているか」。王珪が言った。「臣はこう聞いております。太常丞の元善達は、都で留守を預かっていました。賊が横行するのを見て、馬を駆って遠く江都まで行き、煬帝を諫め、都へ戻るよう求めました。言葉は聞き入れられなかった。その後さらに涙を流して極言して諫めました。煬帝は怒って、遠方へ派遣して兵を追わせました。彼は疫病の地で死にました。虎賁郎中の独孤盛は、江都で宿直していました。宇文化及が反逆を起こした時、独孤盛はただ一人で、抵抗して死にました」。太宗は言った。「屈突通は隋の将軍として、我が軍と潼関で戦った。都が陥落したと聞くと、兵を率いて東へ走った。義兵が桃林で追いついた。私は彼の家人を遣わして招こうとした。彼はすぐにその下僕を殺した。また彼の子を遣わした。すると言った。『私は隋に召し使われ、すでに二人の帝に仕えた。今こそ節に殉ずる時だ。お前は昔、我が家において父子であったが、今は我が家において仇である』。そして子を射た。子は逃げた。率いる兵は多くが散った。屈突通はただ一人、東南に向かって慟哭し、哀しみを尽くした。そして言った。『臣は国の恩を担い、任は将帥に当たった。知も力も尽き、この敗亡を招いた。臣が誠を国に尽くさなかったのではない』。言い終えると、追兵が彼を捕らえた。太上皇が官を授けたが、いつも病と称して固辞した。この忠節は、讃えるに足りる」。そこで担当の役所に命じ、大業年間に直諫して殺された者の子孫を探し出し、報告させた。
解説
この章句が説くこと
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 蒙恬列伝蒙恬に令して曰く、「君の過ち多し。而して卿の弟毅大罪有り。法内史に及ぶ」と。恬曰く、「吾が先人より、子孫に及ぶまで、功信を秦に積むこと三世なり。今臣兵三十余万を将ゐ、身は囚系せらると雖も、其の勢以て倍畔するに足る。然れども自ら必ず死するを知りて義を守る者は、敢て先人の教へを辱めず、以て先主を忘れざればなり。昔周の成王初めて立ち、未だ襁緥を離れず、周公旦王を負ひて以て朝し、卒に天下を定む。成王病有りて甚だ殆きに及び、公旦自ら其の爪を揃りて以て河に沈め、曰く、『王未だ識有らず、是れ旦事を執る。罪殃有らば、旦其の不祥を受けん』と。乃ち書して之を記府に蔵す。信と謂ふべし。王の能く国を治むるに及び、賊臣有りて言ふ、『周公旦乱を為さんと欲すること久し。王若し備へずんば、必ず大事有らん』と。王乃ち大いに怒り、周公旦走りて楚に奔る。成王記府を観て、周公旦の沈書を得、乃ち流涕して曰く、『孰か周公旦の乱を為さんと欲すと謂ふや』と。之を言ふ者を殺して周公旦を反す。故に周書に曰く『必ず参にして之を伍にせよ』と。今恬の宗、世々二心無し。而して事卒に此の如し。是れ必ず孽臣の逆乱、内陵の道なり。夫れ成王は失ひて復た振るひ、則ち卒に昌ゆ。桀は関竜逢を殺し、紂は王子比干を殺して悔いず、身死して則ち国亡ぶ。臣故に曰く、過ちは振ふべく諫めは覚るべしと。参伍を察するは、上聖の法なり。凡そ臣の言は、以て咎を免れんことを求むるに非ず、将に以て諫めて死せんとす。願はくは陛下万民の為に道に従ふを思へ」と。
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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説苑・正諫易に曰わく、「王臣蹇蹇たるは、躬の故に匪ず」と。人臣の蹇蹇として難しと為す所以にして、其の君を諫むる者は身の為に非ざるなり、将に以て君の過を匡し、君の失を矯めんと欲すればなり。君に過失有るは、危亡の萌なり。君の過失を見て諫めざるは、是れ君の危亡を軽んずるなり。夫れ君の危亡を軽んずる者は、忠臣の忍びて為さざる所なり。三たび諫めて用いられざれば則ち去り、去らざれば則ち身亡ぶ。身亡ぶは、仁人の為さざる所なり。是の故に諫に五有り。一に曰わく正諫、二に曰わく降諫、三に曰わく忠諫、四に曰わく戇諫、五に曰わく諷諫。孔子曰わく、「吾は其れ諷諫に従わんか」と。夫れ諫めざれば則ち君を危うくし、固く諫むれば則ち身を危うくす。其の君を危うくせんよりは、寧ろ身を危うくせよ。身を危うくして終に用いられざれば、則ち諫も亦た功無し。智者は君を度り時を権り、其の緩急を調えて其の宜しきに処る。上は敢えて君を危うくせず、下は以て身を危うくせず、故に国に在りて国危うからず、身に在りて身殆うからず。昔陳の霊公は泄冶の諫を聴かずして之を殺し、曹羈は三たび曹君を諫めて聴かれずして去る。春秋の義を序するに賢を倶にすと雖も、曹羈は礼に合えり。
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史記 張丞相列伝周昌は、沛の人なり。其の従兄を周苛と曰ふ。秦の時皆泗水の卒史為り。高祖沛に起ち、泗水の守・監を撃破するに及び、是に於て周昌・周苛、卒史より沛公に従ふ。沛公、周昌を以て職志と為し、周苛を客と為す。従ひて関に入り、秦を破る。沛公立ちて漢王と為り、周苛を以て御史大夫と為し、周昌を中尉と為す。漢王の四年、楚、漢王を滎陽に囲むこと急なり。漢王遁れ出で去りて、周苛をして滎陽城を守らしむ。楚、滎陽城を破り、周苛をして将たらしめんと欲す。苛罵りて曰く、「若(なんぢ)趣(すみや)かに漢王に降れ。然らずんば、今に虜と為らん」と。項羽怒り、周苛を亨(に)る。是に於て乃ち周昌を拝して御史大夫と為す。常に従ひて項籍を撃破す。六年中を以て蕭・曹等と倶に封ぜらる。周昌を封じて汾陰侯と為す。周苛の子周成は父の事に死せしを以て、封ぜられて高景侯と為る。昌は人と為り彊力にして、敢へて直言す。蕭・曹等より皆之に卑下す。昌嘗て燕の時に入りて事を奏す。高帝方に戚姫を擁す。昌還り走る。高帝逐ひて得、周昌の項に騎りて、問ひて曰く、「我は何如なる主ぞや」と。昌仰ぎて曰く、「陛下は即ち桀紂の主なり」と。是に於て上之を笑ふ。然れども尤も周昌を憚る。
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