葉隠 / 聞書第一
大氣と云ふは、大慈悲の義なり。神詠、慈悲の目ににくしと思ふ人あらじ、科のあるをばなほもあはれめ。廣く大なること限りなし。普くと云ふところなり。上古三國の聖衆を、今日まで崇め奉るも、慈悲の廣く至るところなり。何事も、君父の御爲、又は諸人の爲、子孫の爲にするが大慈悲、慈悲は智勇の本なり。慈悲より出づる智勇が本の物なり。慈悲の爲に罰し、
新字:大気と云ふは、大慈悲の義なり。神詠、慈悲の目ににくしと思ふ人あらじ、科のあるをばなほもあはれめ。広く大なること限りなし。普くと云ふところなり。上古三国の聖衆を、今日まで崇め奉るも、慈悲の広く至るところなり。何事も、君父の御為、又は諸人の為、子孫の為にするが大慈悲、慈悲は智勇の本なり。慈悲より出づる智勇が本の物なり。慈悲の為に罰し、
書き下し
大気(たいき)と云ふは、大慈悲の義なり。神詠(しんえい)に、「慈悲の目に憎しと思ふ人あらじ、科(とが)のあるをばなほも憐れめ」。広く大なること限りなし。普(あまね)くと云ふところなり。上古三国の聖衆を、今日まで崇め奉るも、慈悲の広く至るところなり。何事も、君父の御為、又は諸人の為、子孫の為にするが大慈悲、慈悲は智勇の本なり。慈悲より出づる智勇が本の物なり。慈悲の為に罰し、慈悲の為に働く故、強く正しきこと限りなし。「諸人を子の如く思ふ時、諸人また我を親の如く思ふ故、天下泰平の基は慈悲なり」と。
現代語訳
大きな器量とは、大いなる慈悲のことである。ある神詠に「慈悲の目には憎いと思う人などいない、罪のある者をこそなお憐れめ」とある。その広さ大きさは限りがなく、あまねく及ぶという境地だ。遠い昔、三国(インド・中国・日本)の聖者たちが今日まで崇められるのも、慈悲が広く行き渡っているからである。何事も、主君や親のため、人々のため、子孫のためにするのが大慈悲であり、慈悲こそ知恵と勇気の根本だ。慈悲から出た知恵と勇気こそが本物である。
解説
「大器(大気)とは大慈悲のこと」と説き起こし、慈悲こそ知恵と勇気の根本だと述べる一条です。「慈悲の目に憎いと思う人はいない、罪ある者をこそなお憐れめ」という神詠を引き、その広さ限りなきを讃えます。何事も主君や親のため、人々のため、子孫のためにするのが大慈悲であり、そこから出た知恵と勇気こそ本物だ、と続きます。葉隠は死や剛勇を語る書と見られがちですが、その根に「人のために」という慈しみを据えている点が重要です。現代でも、他者への思いやりを土台にした判断や行動は、強さとぶれなさを兼ね備えます。慈悲は弱さではなく、真の勇気の源だと示す一節です。
この章句が説くこと
慈悲大慈悲智勇の本思いやり他者のため真の勇気
関連する章句
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孟子・離婁章句上孟子曰く、「三代の天下を得るや、仁を以てし、其の天下を失うや不仁を以てす。國の所廢興存亡する所以の者も、亦た然り。天子不仁なれば、四海を保たず。諸侯不仁なれば、社稷を保たず。卿大夫不仁なれば、宗廟を保たず。士庶人不仁なれば、四體を保たず。今、死亡を惡みて、而も不仁を樂しむは、是れ猶ほ醉うことを惡みて、而も酒を強うるがごとし。」
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。此の如きのみ。」
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有り、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。譽をᰰ黨朋友に要むる所以に非ざるなり。其の聲を惡んで然るに非ざるなり。是に由りて之を觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能わざると謂う者は、自ら賊う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者は、皆擴して之を充たすことを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保んずるに足る。苟くも之を充たさざれば、以て父母に事うるに足らず。」
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