五輪書 / 火の巻
鼠頭午(牛)首と云ふは敵と戦のうちに互にこまかなる所を思ひ合てもつるる心になる時兵法の道を常に鼠頭午(牛)首鼠頭午(牛)首と思ひていかにもこまかなる内に俄に大きなる心にして大小にかはる事兵法一ツの心だて也平生人の心も鼠頭午(牛)首と思ふべき所武士の肝心也兵法大分小分にしても此心をはなるべからず此事能々吟味有るべきもの也
書き下し
鼠頭午(牛)首(そとうごしゆ)と云ふは、敵と戦のうちに、互にこまかなる所を思ひ合てもつるる心になる時、兵法の道を常に「鼠頭午(牛)首・鼠頭午(牛)首」と思ひて、いかにもこまかなる内に、俄(にはか)に大きなる心にして、大小にかはる事、兵法一ツの心だてなり。平生(へいぜい)人の心も、鼠頭午(牛)首と思ふべき所、武士の肝心なり。兵法大分・小分にしても、此の心をはなるべからず。此の事、能々(よくよく)吟味有るべきものなり。
現代語訳
「鼠頭牛首(そとうごしゅ=鼠の頭と牛の首)」というのは、敵と戦っている間に、互いに細かなところにばかり気を取られてもつれた心になるとき、兵法の道を常に「鼠頭牛首、鼠頭牛首」と念じて、いかにも細かくなっている(そのただ中)で、急に大きな心に切り替えて、大と小を自在に行き来する――これが兵法の一つの心構えである。ふだんの人の心も「鼠頭牛首」であるべきだ、というところが武士にとって肝心である。大きな兵法でも小さな兵法でも、この心を離れてはならない。このことをよくよく吟味すべきである。
解説
「鼠頭牛首」――鼠のように小さな頭と牛のように大きな首、という奇妙な名で、視点の大小を自在に切り替える心構えを説く一段です。戦っていると、互いに細かな読み合いに没入して、視野が狭まりもつれてしまう。そこで武蔵は、細部に入り込んだそのただ中で、急に「牛の首」のような大きな視点へ切り替えよ、と説きます。細(鼠の頭)と大(牛の首)を行き来し、どちらか一方に固着しない。さらに武蔵は「ふだんの人の心もこうあるべきだ」と、これを日常の心構えにまで広げます。細部にこだわりすぎて全体を見失うのも、大きな話ばかりで詰めが甘いのも、どちらも危うい。ミクロとマクロを自在に往復する視野の伸縮こそ肝心だ、というのです。目の前の細部に沈み込んだら、意識して全体像へ引いて見る――近視眼と大局観を切り替える思考の柔軟さを教える、現代の問題解決にも直結する一段です。
この章句が説くこと
鼠頭牛首大小を切り替える視野の伸縮大局観細部に沈まない柔軟な思考
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