五輪書 / 火の巻
むかつかすると云は物毎に有一ツにはきはどき心二ツにはむりなる心三ツには思はざる心能吟味有べし 大分の兵法にしてむかつかする事肝要也敵の思はざる所へいきどふしくしかけて敵の心のきはまらざる内に我利を以て先をしかけて勝事肝要也又一分の兵法にしてもはじめゆるりと見せて俄に強くかかり敵の心のめりかり働くにしたがひいきをぬかさず其儘利をうけて勝を弁ふる事肝要なり能々吟味有べき也
書き下し
むかつかすると云ふは、物毎に有り。一ツにはきはどき心、二ツにはむりなる心、三ツには思はざる心。能(よ)く吟味有るべし。大分の兵法にして、むかつかする事肝要なり。敵の思はざる所へ、いきどふしく(勢いはげしく)しかけて、敵の心のきはまらざる内に、我利を以て先(せん)をしかけて勝つ事肝要なり。又一分の兵法にしても、はじめゆるりと見せて、俄(にはか)に強くかかり、敵の心のめりかり働くにしたがひ、いきをぬかさず、其の儘利をうけて、勝を弁ふる事肝要なり。能々(よくよく)吟味有るべきなり。
現代語訳
「むかつかする(動揺・うろたえさせる)」というのは、何ごとにもある。一つは危うい(際どい)ことをする心、二つは無理なことをする心、三つは思いもよらないことをする心。よく吟味せよ。大きな兵法(合戦)では、この「むかつかす」ことが肝要だ。敵が思いもよらないところへ、激しい勢いで仕掛けて、敵の心が定まらない(うろたえている)うちに、こちらの手立てで先手を仕掛けて勝つことが肝要である。また小さな兵法(個人戦)でも、はじめはゆったり見せておいて、不意に強く仕掛け、敵の心が動揺して浮き沈みするのに従って、その勢いを逃さず、そのまま(隙を)利用して勝ちをわきまえることが肝要だ。よくよく吟味すべきである。
解説
相手を動揺させて崩す「むかつかす(うろたえさせる)」を説く一段です。武蔵は動揺を生む三つの手を挙げます。危うい(際どい)ことをする、無理な(強引な)ことをする、思いもよらないことをする。いずれも相手の予想を裏切り、心の平静を奪う手です。合戦なら、敵の意表を突いて激しく仕掛け、心が定まらないうちに先手を取る。個人戦なら、はじめゆったり見せて油断させ、不意に強く出て、動揺した相手の浮き沈みの隙を逃さず突く。前段の「移らかす(落ち着きを移す)」が静かに相手を緩ませる手なら、この段は逆に、意表と強襲で相手の平常心を積極的に奪う手です。相手が冷静に対処できる状態を崩し、判断が定まらない一瞬を作って突く。競争や交渉で、相手の想定を外して主導権を奪う――「意表を突く」ことの戦術的価値を体系的に示した一段です。
この章句が説くこと
むかつかす動揺させる意表を突く平常心を奪う強襲主導権
関連する章句
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『新論』長計是れ所謂其の之く所を乖く者にして、実を変じて虚と為し、虚を転じて実と為す。此くの如くなれば、則ち神聖の夷狄を御する所以の略、彼倒用するを得ずして、彼の我を擾す所以の術、我将に之を倒用せんとす。然る後操縦の権、我より之を制す。廟謨既に定まり、上下心を同じくし、千塗万轍、必ず是の道に由りて変ぜず。是に於てか我の夷狄を御する所以の者は、即ち神聖の夷狄を御する所以にして、内に一定の略有りて、外に乗ずべきの虚無し。黠虜をして千群我を窺はしむと雖も、将た何を以て我が辺陲に陸梁するを得んや。(大猷公嘗て訳官島野兼了なる者を天竺に遣はす。兼了荷蘭の賈舶に乗り、諸国を周流し、遂に東海に往くこと三千里、一大国を得たり。以為へらく是の国宜しく神州に属すべしと。因りて碑を立てて題して日本国中と曰ふ。当時の規模の宏遠なること、亦見るべきなり。海東三千里なる者は、疑ふらくは即ち西夷の所謂亜墨利加洲なる者ならん。)
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『新論』長計後中国多故に属して、遠人至らず、廟堂遠大の略無く、土疆日に蹙まりて、神聖の天下を経営する所以の意熄む。近世の若きに至りては、則ち夷狄強梁にして、亦大勢に見る有り、素定の略を挟みて、以て其の呑噬を逞しくすること三百余年、傲然として敢へて糠を神州に舐め、神聖の夷狄を御する所以の略を倒用して、反つて以て中国を謀らんと欲す。而して中国未だ一定の策を画せず、朝野の論、一是一非、因循苟且にして、以て姑息の慮を為すを免れず。赫赫たる神明の邦を以てして、坐して腥羶の異類をして我が辺陲に陸梁せしむ、亦羞づべからずや。夫れ億兆に君師たる、其の気世を蓋ふに足り、胸臆四海を容るるに足り、従容として天下の事に処して余り有る者は、人を制する者なり。見る所目前の利害に過ぎざる者は、事多く思慮の外に出で、天下を胸中に運らすこと能はず、人に制せらるる者なり。海外の事、目の未だ嘗て見ざる所、故に黠虜以て吾が思慮の未だ及ばざる所を以て之を侮弄するを得。亦怪しむに足らざるなり。
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『新論』長計且つ夫れ所謂攻むるの勢なる者も、亦豈に必ずしも兵を頓め軍を覆して以て其の城邑を争ひて、而る後乃ち之を攻と謂はんや。要は我自ら勝つべからざるを為して、以て敵の勝つべきを求むるのみ。誠に能く志気を恢廓にして大勢を観、外は以て謀を伐ち交を伐ち、形格勢禁の略を設け、内は以て大いに守禦の備へを修め、兵力以て虜を制するに足り、政教以て夷を変ずるに足らば、彼其れ辺を伺はんか、奮撃殲滅して、以て威を万里に揚げ、若し其れ帰順せんか、東漸西被して、以て化を四裔に弘め、而して蝦夷の諸島、山丹の諸胡をして、相踵ぎて内属せしめ、日に夷狄を斥け土宇を拓く。勝つべからざるを為す所以にして、未だ戦はずと雖も、隠然として必ず其の心を攻むるに足る者有り。而る後肮を批ち虚を擣き、機に相して之に乗じ、天より下るが如くす。其の勝つべきに応ずる所以にして、則ち虜我に備へざるを得ずして、客を変じて主と為すの術窮まらん。
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『新論』守禦或ひと曰く、水戦は虜の長技にして、我の恃みて以て虜を制する所に非ず。必ず之を陸地に致して、然る後に戦ふべし、と。其の言固より是なり。然れども虜も亦た戦に習へば、敢へて妄りに自ら長技を捨てて人と其の短なる所を角せず。則ち彼将に洋中に停泊し、運輸を妨害して以て乗ずべきの間を伺ひ、虚実の処を熟視し、風のごとく至り電のごとく去り、之を邀ふるに方無く、之を逐ふに蹤無からんとす。是れ虜は外に忌む所無く、内に恃む所有り、東に声して西に擾し、安坐して人を制す。而るに我が兵は寸板も海に下す能はず、徒手にて陸地を奔走し、自ら罷労を取り、虜を眼前に縦ちて、一矢をも発する能はず、倉皇狼狽して、人に致されて遑あらず。何を以てか能く坐して敵を陸地に致さんや。且つ戦勝は気に在り。内に恃む有りて、外に忌む無ければ、則ち士卒の胆気自ら倍す。若し我が技をして彼と抗せざる者有らしめば、則ち未だ戦はずして気先づ阻む。猶ほ何ぞ能く従容として虜の気を撃刺馳突の表に挫かんや。
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『新論』長計今誠に虚を去りて実に就かんと欲せば、則ち其の之く所を乖くに若くは莫し。其の之く所を乖かんと欲せば、虜をして我に備へしむるに若くは莫し。夫れ攻守は一のみ。古人言へる有り、攻は守の機なりと。我に攻むるの勢有らば、則ち虜必ず我に備へて、権我に在り。今若し守備已に修まり、機に乗じて虜を外洋に截たば、則ち虜辺境を驚動せんと欲すと雖も、豈に敢へて少船寡卒を分かちて、公然として海上に睥睨せんや。彼若し群処衆行して敢へて分かたずんば、則ち亦東西に出没して以て人を擾すこと能はずして、我の備ふる所の者約なり。彼久しく一処に聚まらば、則ち漁商して以て其の利を収むること能はず、其の勢亦常常停泊すること今日の如くなる能はず。彼恃みて以て術と為す無くして、恣睢無忌の心沮まん。且つ我の内地に居りて、以て敵を待つ者は散地なり、而して虜の入ること未だ深からざる者は軽地なり。法に曰く、散地には吾将に其の志を一にせんとすと。今能く一定の策を決し、民をして向かふ所を知らしめ、以て吾が衆心を一にして、其の散地に居る者を撃たば、之を破ること甚だ難からず。何ぞ憚りて之を摧折する所以の術を講ぜざらんや。
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『新論』長計今夫れ一定の策を決せんと欲せば、宜しく天下の大勢を観て、以て彼此の虚実を審察すべし。四海万国の形勢は、臣既に粗之を言へり。今既に其の大勢を観れば、則ち宜しく八洲を以て城と為し、滄海を池と為し、天下の全形に因りて、以て戦守の略と為すべし。彼此の虚実を察せんと欲せば、則ち宜しく主客の勢を審らかにして、以て操縦の権を制すべし。夫れ虜の万里にして人を窺ふ者は客なり、我の内に自ら守る者は主なり。然れども虜の毎に長策に出で、従容として人を制する者は、客を変じて主と為すなり。彼客にして饋糧の労無き者は、或いは漁し或いは商し、因糧の術を活用するなり。破車罷馬の費無き者は、巨艦に乗り長風に駕するなり。其の能く坐して吾が民をして奔命に罷れしむる者は、則ち戦はずして人の兵を屈するの謀にして、夷教を以て我が民を誘ふ者は、則ち国を全うするを上と為すの策なり。

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