顔氏家訓 / 風操
禮閑傳云:「斬縗之哭、若往而不反、齊縗之哭、若往而反、大功之哭、三曲而偯、小功緦麻、哀容可也、此哀之發於聲音也。」孝經云:「哭不偯。」皆論哭有輕重質文之聲也。禮以哭有言者爲號、然則哭亦有辭也。江南喪哭、時有哀訴之言耳、山東重喪、則唯呼蒼天、期功以下、則唯呼痛深、便是號而不哭。
新字:礼閑伝云:「斬縗之哭、若往而不反、斉縗之哭、若往而反、大功之哭、三曲而偯、小功緦麻、哀容可也、此哀之発於声音也。」孝経云:「哭不偯。」皆論哭有軽重質文之声也。礼以哭有言者為号、然則哭亦有辞也。江南喪哭、時有哀訴之言耳、山東重喪、則唯呼蒼天、期功以下、則唯呼痛深、便是号而不哭。
書き下し
礼の間伝に云う、「斬衰の哭は、往きて反らざるが若く、斉衰の哭は、往きて反るが若く、大功の哭は、三たび曲がりて偯し、小功緦麻は、哀容にして可なり。此れ哀の声音に発するなり」と。孝経に云う、「哭して偯せず」と。皆な哭に軽重質文の声有るを論ずるなり。礼は哭して言有る者を以て号と為す。然らば則ち哭にも亦た辞有り。江南の喪哭は、時に哀訴の言有るのみ。山東の重喪は、則ち唯だ蒼天と呼ぶ。期功以下は、則ち唯だ痛み深しと呼ぶ。便ち是れ号して哭せざるなり。
現代語訳
『礼記』間伝篇にいう。「斬衰の喪の泣き方は、行ったまま帰らないようであり、斉衰の泣き方は、行って帰るようであり、大功の泣き方は、三度声を曲げて尾を引き、小功と緦麻は、悲しげな表情であればよい。これが悲しみが声に表れる形である」。『孝経』にいう。「泣くときに声を長く引かない」。どちらも、泣き方に軽重と質朴・修飾の別があることを論じている。礼では、泣きながら言葉を発するものを「号」という。だとすれば、泣くことにも言葉がある。江南の喪の泣き方には、ときに訴えかける言葉があるだけである。山東での重い喪では、ただ「蒼天」と呼ぶ。それより軽い喪では、ただ「痛みが深い」と呼ぶ。これはつまり、号であって哭ではない。
解説
泣き方にも規定がある、という一段です。喪の重さによって声の引き方が違い、言葉を伴うものは「号」、伴わないものは「哭」と区別される。悲しみという最も個人的なものにさえ、共有された形式が用意されていました。形式があることの効用は、悲しみ方を強制することではなく、どう振る舞えばよいか分からない人に型を与えることにあります。葬儀や見舞い、謝罪の場で私たちが困るのは、感情がないからではなく、どう表せばよいか分からないからです。型を持っている集団は、その場で個人が消耗しません。形式主義と切り捨てる前に、形式が誰を助けているかを見る価値があります。
この章句が説くこと
斬衰斉衰の哭哭して偯せず号して哭せず形式が助けるもの
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