顔氏家訓 / 風操
別易會難、古人所重、江南餞送、下泣言離。有王子侯、梁武帝弟、出爲東郡、與武帝別、帝曰:「我年已老、與汝分張、甚以惻愴。」數行淚下。侯遂密云、赧然而出。坐此被責、飄颻舟渚、一百許日、卒不得去。北間風俗、不屑此事、歧路言離、歡笑分首。然人性自有少涕淚者、腸雖欲絶、目猶爛然、如此之人、不可強責。
新字:別易会難、古人所重、江南餞送、下泣言離。有王子侯、梁武帝弟、出為東郡、与武帝別、帝曰:「我年已老、与汝分張、甚以惻愴。」数行涙下。侯遂密云、赧然而出。坐此被責、飄颻舟渚、一百許日、卒不得去。北間風俗、不屑此事、歧路言離、歓笑分首。然人性自有少涕涙者、腸雖欲絶、目猶爛然、如此之人、不可強責。
書き下し
別れ易く会い難きは、古人の重んずる所なり。江南の餞送は、泣を下して離を言う。王子侯有り、梁の武帝の弟なり。出でて東郡と為り、武帝と別る。帝曰く、「我が年已に老いたり。汝と分張す。甚だ以て惻愴たり」と。数行の涙下る。侯遂に密かに云い、赧然として出づ。此に坐して責めを被り、舟渚に飄颻すること一百許日、卒に去るを得ず。北間の風俗は、此の事を屑しとせず。岐路に離を言い、歓笑して首を分かつ。然れども人性自ら涕涙少なき者有り。腸絶えんと欲すと雖も、目猶お爛然たり。此くの如きの人は、強いて責むべからず。
現代語訳
別れは容易で再会は難しいというのは、昔の人が重んじたことである。江南の見送りでは、涙を流して別れを言う。王子侯という人がいた。梁の武帝の弟である。東郡の長官として出るとき、武帝と別れた。帝は言った。「私はもう年老いた。お前と離れるのは、たいそう心が痛む」。そして涙を数筋流した。侯はひそかに何かを言い、赤面して退出した。このことで責めを受け、船で水辺を漂うこと百日ばかり、ついに任地へ発つことができなかった。北方の風俗では、こういうことを気にしない。分かれ道で別れを告げ、笑い合って別れる。しかし人には生まれつき涙の少ない者がいる。腸がちぎれるほどの思いでも、目は乾いたままである。こういう人を、無理に責めてはならない。
解説
この章句が説くこと
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『顔氏家訓』風操江左の朝臣、子孫初めて服を釈けば、二宮に朝見するに、皆な当に泣涕すべし。二宮之が為に容を改む。頗る膚色充沢にして、哀感無き者有り。梁武其の人と為りを薄しとし、多く抑退せらる。裴政服を出でて、武帝に問訊す。貶痩枯槁、涕泗滂沱たり。武帝之を目送して曰く、「裴之礼は死せざるなり」と。
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『顔氏家訓』風操江南の諸憲司の人事を弾ずるや、事重からずと雖も、教義を以て辱めらるる者、或いは軽く繋がれて身獄戸に死する者は、皆な怨讎と為り、子孫三世交通せず。到洽御史中丞と為り、初め劉孝綽を弾ぜんと欲す。其の兄の漑は先に劉と善し。苦諫して得ず。乃ち劉に詣り涕泣して告別して去る。
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『顔氏家訓』風操若し君と言わば、色を変ずと雖も、猶お亡祖・亡伯・亡叔と云うなり。吾名士を見るに、亦た其の亡兄弟を呼びて兄子・弟子門中と為す者有り。亦た未だ安貼と為さざるなり。北土の風俗は、都て此を行わず。太山の羊侃、梁初に南に入る。吾近ごろ鄴に至り、其の兄の子肅、侃の委曲を訪ぬ。吾之に答えて云う、「卿の従門中は梁に在り、此くの如く此くの如し」と。粛曰く、「是れ我が親の第七の亡叔なり、従に非ず」と。祖孝徴座に在り、先に江南の風俗を知る。乃ち之に謂いて云う、「賢従弟門中なり、何が故に解せざる」と。
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