顔氏家訓 / 風操
江南諸憲司彈人事、事雖不重、而以教義見辱者、或被輕繫而身死獄戶者、皆爲怨讎、子孫三世不交通矣。到洽爲御史中丞、初欲彈劉孝綽、其兄漑先與劉善、苦諫不得、乃詣劉涕泣告別而去。
新字:江南諸憲司弾人事、事雖不重、而以教義見辱者、或被軽繋而身死獄戸者、皆為怨讎、子孫三世不交通矣。到洽為御史中丞、初欲弾劉孝綽、其兄漑先与劉善、苦諫不得、乃詣劉涕泣告別而去。
書き下し
江南の諸憲司の人事を弾ずるや、事重からずと雖も、教義を以て辱めらるる者、或いは軽く繋がれて身獄戸に死する者は、皆な怨讎と為り、子孫三世交通せず。到洽御史中丞と為り、初め劉孝綽を弾ぜんと欲す。其の兄の漑は先に劉と善し。苦諫して得ず。乃ち劉に詣り涕泣して告別して去る。
現代語訳
江南の監察の役所が人を弾劾するとき、事案自体は重くなくとも、道義の名において辱められた者や、軽く拘禁されただけで牢内で死んだ者があると、みな怨みの仇となり、その子孫は三代にわたって行き来しなくなった。到洽が御史中丞となり、はじめ劉孝綽を弾劾しようとした。到洽の兄の到漑は以前から劉と親しかった。強く諫めたが聞き入れられなかった。そこで劉のもとを訪ね、涙を流して別れを告げて去った。
解説
弾劾は職務ですが、その代償は三代続く断絶でした。到洽は弟として職務を選び、兄の到漑は友人のもとへ行って泣きながら別れを告げた。兄は弟を止められず、しかし友を裏切ることもできなかったので、関係が終わることを自分から相手に伝えに行った。これが彼にできた唯一のことです。職務上の正しさが、私的な関係を必ず壊す場面はあります。そのとき、黙って壊れるに任せるか、自分から出向いて事情を告げるか。到漑の選択は、関係を救えないと分かったうえでの誠実さです。避けられない衝突が起こるとき、せめて相手に説明しに行けるかどうかが問われます。
この章句が説くこと
到洽と到漑弾劾子孫三世交通せず避けられない衝突
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