顔氏家訓 / 教子
齊武成帝子琅邪王、太子母弟也、生而聰慧、帝及后並篤愛之、衣服飲食、與東宮相準。帝每面稱之曰:「此黠兒也、當有所成。」及太子即位、王居別宮、禮數優僭、不與諸王等、太后猶謂不足、常以爲言。
新字:斉武成帝子琅邪王、太子母弟也、生而聰慧、帝及后並篤愛之、衣服飲食、与東宮相準。帝毎面称之曰:「此黠児也、当有所成。」及太子即位、王居別宮、礼数優僭、不与諸王等、太后猶謂不足、常以為言。
書き下し
斉の武成帝の子琅邪王は、太子の母弟なり。生まれながらにして聡慧、帝及び后並びに之を篤愛し、衣服飲食、東宮と相準ず。帝毎に面のあたり之を称して曰く、「此れ黠児なり、当に成す所有るべし」と。太子即位するに及び、王別宮に居り、礼数優僭にして、諸王と等しからず。太后猶お足らずと謂い、常に以て言と為す。
現代語訳
北斉の武成帝の子である琅邪王は、皇太子の同母弟であった。生まれつき聡明で、帝も皇后もともに深く愛し、衣服も食事も皇太子と同じ水準にした。帝はいつも面と向かって「この子は利発だ、きっと何かを成すだろう」と褒めた。皇太子が即位すると、王は別宮に住み、待遇は身分を越えて手厚く、他の諸王と同じではなかった。それでも皇太后はまだ足りないと言い、常にそれを口にしていた。
解説
次の段で破滅する人物の、恵まれた前半です。ここで注意すべきは、与えられたものが物ではなく「序列の混乱」だという点です。弟なのに衣食が皇太子と同じ、即位後も諸王と扱いが違う。本人は何も悪いことをしていません。周囲が位置を曖昧にしただけです。しかも帝は面前で「この子は成す」と褒め続けた。組織でも、特定の人だけ評価や処遇のルールを外れて扱うと、本人の中に「自分は例外だ」という前提が育ちます。その前提は、後ろ盾が消えた瞬間に本人を殺します。愛情の量ではなく、位置を明示しなかったことが問題でした。
この章句が説くこと
琅邪王東宮と相準ず礼数優僭位置を曖昧にする
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