顔氏家訓 / 勉學
洎于梁世、茲風復闡、莊、老、周易、總謂三玄。武皇、簡文、躬自講論。周弘正奉贊大猷、化行都邑、學徒千餘、實為盛美。元帝在江、荆間、復所愛習、召置學生、親為教授、廢寢忘食、以夜繼朝、至乃倦劇愁憤、輒以講自釋。吾時頗預末筵、親承音旨、性既頑魯、亦所不好云。
新字:洎于梁世、茲風復闡、荘、老、周易、総謂三玄。武皇、簡文、躬自講論。周弘正奉賛大猷、化行都邑、学徒千余、実為盛美。元帝在江、荆間、復所愛習、召置学生、親為教授、廃寝忘食、以夜継朝、至乃倦劇愁憤、輒以講自釈。吾時頗預末筵、親承音旨、性既頑魯、亦所不好云。
書き下し
梁世に洎びて、茲の風復た闡かる。荘・老・周易は、総じて三玄と謂う。武皇・簡文は、躬ら自ら講論す。周弘正は大猷を奉賛し、化は都邑に行わる。学徒千余、実に盛美と為す。元帝の江・荆の間に在るや、復た愛習する所なり。学生を召置し、親ら教授を為す。寝を廃し食を忘れ、夜を以て朝に継ぐ。乃ち倦劇愁憤するに至れば、輒ち講を以て自ら釈く。吾時に頗る末筵に預り、親しく音旨を承く。性既に頑魯にして、亦た好まざる所と云う。
現代語訳
梁の時代になって、この風潮がふたたび開かれた。『荘子』『老子』『周易』を総称して三玄という。武帝と簡文帝は、自ら講義し論じた。周弘正は大いなる道を助け讃え、その教化は都に行き渡った。学徒は千余人に及び、まことに盛んで見事であった。元帝が江陵や荊州にいたときも、これを愛好し習った。学生を招いて置き、自ら教授した。寝るのを忘れ食事を忘れ、夜を昼に継いだ。疲れ果てて憂鬱になると、そのたびに講義によって気を晴らした。私もそのとき末席に連なり、直接その趣旨を聞いた。しかし生まれつき愚鈍で、好むところでもなかったという。
解説
前段で玄学の領袖たちの破綻を並べた顔之推が、自分がその場にいたことを最後に記します。皇帝が自ら講義し、学徒は千人を超え、元帝は寝食を忘れて教えた。まさに盛況でした。その末席に自分もいた。そして「性既に頑魯にして、亦た好まざる所」——生まれつき鈍く、好きでもなかった。批判した対象の内側に自分もいたことを隠さず、しかし馴染めなかったと書く。時代の熱狂の中にいて、それに乗れなかったことを、負い目としてではなく事実として記録しています。
この章句が説くこと
荘老周易を総じて三玄と謂う寝を廃し食を忘れ夜を以て朝に継ぐ性既に頑魯にして好まざる所
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