顔氏家訓 / 勉學
吾嘗從齊主幸幷州、自井陘關入上艾縣、東數十里、有獵閭村。後百官受馬糧在晉陽東百餘里亢仇城側。並不識二所本是何地、博求古今、皆未能曉。及檢字林、韻集、乃知獵閭是舊躐(足改谷)餘聚、亢仇舊是(谷曼)(谷九)亭、悉屬上艾。時太原王劭欲撰鄉邑記注、因此二名聞之、大喜。
新字:吾嘗従斉主幸幷州、自井陘関入上艾県、東数十里、有猟閭村。後百官受馬糧在晉陽東百余里亢仇城側。並不識二所本是何地、博求古今、皆未能暁。及検字林、韻集、乃知猟閭是旧躐(足改谷)余聚、亢仇旧是(谷曼)(谷九)亭、悉属上艾。時太原王劭欲撰鄉邑記注、因此二名聞之、大喜。
書き下し
吾嘗て斉主に従いて并州に幸す。井陘関より上艾県に入り、東数十里に、猟閭村有り。後に百官の馬糧を受くるは晋陽の東百余里の亢仇城の側に在り。並びに二所は本と是れ何の地なるかを識らず。博く古今に求むるも、皆な未だ暁る能わず。字林・韻集を検するに及び、乃ち知る、猟閭は是れ旧の躐余聚、亢仇は旧は是れ谷九亭にして、悉く上艾に属す。時に太原の王劭、郷邑の記注を撰せんと欲す。此の二名に因りて之を聞き、大いに喜べり。
現代語訳
私はかつて北斉の主に従って并州に行幸した。井陘関から上艾県に入り、東へ数十里のところに猟閭村があった。また百官が馬の飼料を受け取る場所は、晋陽の東百余里の亢仇城のそばであった。この二か所がもともとどういう土地なのか、誰も知らなかった。広く古今の書を探しても、みな分からなかった。『字林』と『韻集』を調べてはじめて分かった。猟閭は昔の躐余聚であり、亢仇は昔の谷九亭で、どちらも上艾に属していた。当時、太原の王劭が郷土の記録を編もうとしていた。この二つの名を聞いて、たいそう喜んだ。
解説
地名の由来を、字書で解いた記録です。歴史書や地誌をいくら探しても分からなかったものが、字書を引いたら分かった。地名は音が訛って字が変わるので、音を扱う書に手がかりが残っていたわけです。探す場所を変えたら見つかった、という話でもあります。同じ種類の資料をいくら探しても出てこないとき、まったく別の種類の資料に当たる。しかも顔之推はその結果を、郷土史を編もうとしていた人に伝えました。調べて分かったことを、それを必要としている人に届けるところまでが一続きです。
この章句が説くこと
猟閭村と亢仇城字林韻集を検す王劭之を聞きて大いに喜ぶ探す場所を変える
関連する章句
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『顔氏家訓』書證余嘗て趙州の佐と為り、太原の王邵と共に柏人城の西門内の碑を読む。碑は是れ漢の桓帝の時、柏人県の民が県令の徐整の為に立つる所なり。銘に曰く、「山に巏嵍有り、王喬の仙する所」と。方めて知る、此れ巏嵍山なり。巏の字は遂に出づる所無し。嵍の字は諸の字書に依れば、即ち旄丘の旄なり。旄の字は、字林に一音亡付の反。今俗名に依附せば、当に権務と音すべきのみ。鄴に入りて、魏収の為に之を説く。収大いに嘉嘆す。其の趙州の荘厳寺の碑銘を為るに値い、因って云う、「権務の精」と。即ち此を用うるなり。
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