顔氏家訓 / 書證
余嘗爲趙州佐、共太原王邵讀柏人城西門內碑。碑是漢桓帝時柏人縣民爲縣令徐整所立、銘曰:「山有巏婺(女改山)、王喬所仙。」方知此巏婺(女改山)山也。巏字遂無所出。婺(女改山)字依諸字書、即旄丘之旄也、旄字、字林一音亡付反、今依附俗名、當音權務耳。入鄴、爲魏收説之、收大嘉嘆。値其爲趙州莊嚴寺碑銘、因云:「權務之精。」即用此也。
新字:余嘗為趙州佐、共太原王邵読柏人城西門内碑。碑是漢桓帝時柏人県民為県令徐整所立、銘曰:「山有巏婺(女改山)、王喬所仙。」方知此巏婺(女改山)山也。巏字遂無所出。婺(女改山)字依諸字書、即旄丘之旄也、旄字、字林一音亡付反、今依附俗名、当音権務耳。入鄴、為魏収説之、収大嘉嘆。値其為趙州荘厳寺碑銘、因云:「権務之精。」即用此也。
書き下し
余嘗て趙州の佐と為り、太原の王邵と共に柏人城の西門内の碑を読む。碑は是れ漢の桓帝の時、柏人県の民が県令の徐整の為に立つる所なり。銘に曰く、「山に巏嵍有り、王喬の仙する所」と。方めて知る、此れ巏嵍山なり。巏の字は遂に出づる所無し。嵍の字は諸の字書に依れば、即ち旄丘の旄なり。旄の字は、字林に一音亡付の反。今俗名に依附せば、当に権務と音すべきのみ。鄴に入りて、魏収の為に之を説く。収大いに嘉嘆す。其の趙州の荘厳寺の碑銘を為るに値い、因って云う、「権務の精」と。即ち此を用うるなり。
現代語訳
私はかつて趙州の佐官となり、太原の王邵とともに柏人城の西門内の碑を読んだ。碑は漢の桓帝の時代に、柏人県の民が県令の徐整のために立てたものである。銘にいう。「山に巏嵍あり、王喬が仙人となった所」。そこではじめて、これが巏嵍山だと分かった。巏の字はどこにも典拠がない。嵍の字は諸々の字書によれば、旄丘の「旄」である。旄の字は『字林』に一つの音として亡付の反とある。今の俗称に寄せるなら、権務と読むべきである。鄴に入って、魏収にこの話をした。魏収はたいそう感嘆した。ちょうど趙州の荘厳寺の碑銘を作るところだったので、そこで「権務の精」と書いた。つまりこれを用いたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『顔氏家訓』書證柏人城の東北に一孤山有り。古書に載する者無し。唯だ闞駰の十三州志のみ、以て舜大麓に納るとは、即ち此の山を謂うと為す。其の上に今猶お尭の祠有り。世俗或いは呼びて宣務山と為し、或いは呼びて虚無山と為す。出づる所を知る莫し。趙郡の士族に李穆叔・季節の兄弟、李普済有り。亦た学問を為すも、並びに郷邑の此の山を定むる能わず。
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『顔氏家訓』勉學嘗て趙州に游び、柏人城の北に一小水有るを見る。土人も亦た名を知らず。後に城の西門の徐整の碑を読むに云う、「洦流東に指す」と。衆皆な識らず。吾説文を案ずるに、此の字は古の魄の字なり。洦は、浅水の貌なり。此の水は漢より来た本と名無し。直だ浅き貌を以て之を目づくるか。或いは当に即ち洦を以て名と為すべきか。
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『顔氏家訓』勉學吾嘗て斉主に従いて并州に幸す。井陘関より上艾県に入り、東数十里に、猟閭村有り。後に百官の馬糧を受くるは晋陽の東百余里の亢仇城の側に在り。並びに二所は本と是れ何の地なるかを識らず。博く古今に求むるも、皆な未だ暁る能わず。字林・韻集を検するに及び、乃ち知る、猟閭は是れ旧の躐余聚、亢仇は旧は是れ谷九亭にして、悉く上艾に属す。時に太原の王劭、郷邑の記注を撰せんと欲す。此の二名に因りて之を聞き、大いに喜べり。
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『顔氏家訓』書證何を以て之を験せん。孔子の弟子の虙子賤は単父の宰と為る。即ち虙羲の後なり。俗字にも亦た宓と為し、或いは復た山を加う。今兗州永昌郡の城は、旧の単父の地なり。東門に子賤の碑有り。漢世の立つる所なり。乃ち曰く、「済南の伏生は、即ち子賤の後なり」と。是に知る、虙の伏におけるは、古来の通字にして、誤りて宓と為すこと、較か知るべきなり。
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『顔氏家訓』書證晋の中興書に、「太山の羊曼は、常に頽縦任侠にして、飲酒して節を誕にす。兗州は号して濌伯と為す」と。此の字は皆な音訓無し。梁の孝元帝常に吾に謂いて曰く、「由来識らず。唯だ張簡憲の教えを見るのみ。呼びて嚃羹の嚃と為す。爾より便ち之を遵承するも、亦た出づる所を知らず」と。簡憲は是れ湘州刺史張纘の謚なり。江南は号して碩学と為す。
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『顔氏家訓』書證人有りて吾を訪いて曰く、「魏志の蔣済の上書に云う『弊(支に力)の民』とは、是れ何の字なるや」と。余之に応えて曰く、「意うに(支に力)は即ち是れ(危に皮)倦の(危に皮)なるのみと為す。張揖・呂忱並びに云う、『支の傍らに刀剣の刀を作るは、亦た是れ剞の字なり』と。知らず、蔣氏自ら支の傍らに筋力の力を造るか、或いは剞の字を借りるか。終に当に九偽の反と音すべし」と。