師導古典を学びたいすべての人に

顔氏家訓 / 音辭

今之學士、語亦不正、古獨何人、必應隨其偽僻乎?通俗文曰:「入室求曰搜。」反為兄侯。然則兄當音所榮反。今北俗通行此音、亦古語之不可用者。璵璠、魯人寶玉、當音餘煩、江南皆音藩屏之藩。岐山當音為奇、江南皆呼為神祇之祇。江陵陷沒、此音被於關中、不知二者何所承案。以吾淺學、未之前聞也。

新字:今之学士、語亦不正、古独何人、必応随其偽僻乎?通俗文曰:「入室求曰捜。」反為兄侯。然則兄当音所栄反。今北俗通行此音、亦古語之不可用者。璵璠、魯人宝玉、当音余煩、江南皆音藩屏之藩。岐山当音為奇、江南皆呼為神祇之祇。江陵陥没、此音被於関中、不知二者何所承案。以吾浅学、未之前聞也。

書き下し

今の学士も、語亦た正しからず。古独り何人ぞ、必ずしも応に其の偽僻に随うべけんや。通俗文に曰く、「室に入りて求むるを捜と曰う」と。反して兄侯と為す。然らば則ち兄は当に所栄の反と音すべし。今北俗は通じて此の音を行うも、亦た古語の用うべからざる者なり。璵璠は、魯人の宝玉なり。当に余煩と音すべきに、江南は皆な藩屏の藩と音す。岐山は当に音を奇と為すべきに、江南は皆な呼びて神祇の祇と為す。江陵の陥没するや、此の音関中に被る。知らず、二者は何の承案する所ぞ。吾が浅学を以てしては、未だ之を前に聞かざるなり。

現代語訳

今の学者もまた、言葉が正しくない。昔の人だけが特別だったわけではないのに、どうしてその誤りに従う必要があろうか。『通俗文』にいう。「室に入って探すことを捜という」。その反切を兄侯とする。そうであれば「兄」は所栄の反と読むべきである。今の北方の俗ではこの音が広く行われているが、これも古語であって用いるべきでないものである。「璵璠」は魯の宝玉である。「余煩」と読むべきなのに、江南ではみな藩屏の「藩」と読む。「岐山」は音を「奇」とすべきなのに、江南ではみな神祇の「祇」と呼ぶ。江陵が陥落したとき、この音が関中にまで及んだ。この二つが何に基づいているのか分からない。私の浅い学問では、以前に聞いたことがない。

解説

「古独り何人ぞ」——昔の人だけが特別だったわけではない、という一句が効いています。古い書物に書いてあるからといって従う必要はない。同時に、今の学者も間違っている。過去にも現在にも無条件に従わない、という立場です。そして最後は正直です。江南の二つの読みがどこから来たのか分からない、自分の学問では聞いたことがない。批判する一方で、自分に分からないことは分からないと書く。過去の権威にも現在の慣行にも従わないという立場は、自分の限界を認めることとセットでなければ、ただの独断になります。

この章句が説くこと

古独り何人ぞ其の偽僻に随わんや璵璠は当に余煩と音すべし未だ之を前に聞かず

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる