顔氏家訓 / 書證
爾雅云:「朮、山薊也。」郭璞注云:「今朮似薊而生山中。」案:朮葉其體似薊、近世文士、遂讀薊爲筋肉之筋、以耦地骨用之、恐失其義。
新字:爾雅云:「朮、山薊也。」郭璞注云:「今朮似薊而生山中。」案:朮葉其体似薊、近世文士、遂読薊為筋肉之筋、以耦地骨用之、恐失其義。
書き下し
爾雅に云う、「朮は、山薊なり」と。郭璞注して云う、「今の朮は薊に似て山中に生ず」と。案ずるに、朮の葉は其の体薊に似たり。近世の文士、遂に薊を読みて筋肉の筋と為し、以て地骨に耦して之を用う。恐らくは其の義を失わん。
現代語訳
『爾雅』にいう。「朮は山薊である」。郭璞が注して「今の朮は薊に似ていて山中に生える」という。調べてみると、朮の葉はその姿が薊に似ている。近ごろの文人は「薊」を筋肉の「筋」と読み、それを「地骨」と対にして用いている。おそらく本来の意味を失っている。
解説
「山薊」を「山筋」と読み替え、それを「地骨」という語と対にして使う。対句の見た目は整いますが、薊は植物の名であって筋肉とは関係がありません。文人が対句を作るために、語の意味を犠牲にした例です。形式を整えようとして中身を歪めるのは、文章に限りません。資料のスライドを揃えるために、実態と違う分類にする。組織図の見栄えのために、実際には並列でないものを並べる。形式が先に立つと、中身が形式に合わせて曲げられます。
この章句が説くこと
朮は山薊なり薊を読みて筋肉の筋と為す地骨に耦す形式と中身
関連する章句
-
『顔氏家訓』書證詩に云う、「黄鳥于に飛び、灌木に集まる」と。伝に云う、「灌木は、叢木なり」と。此れ乃ち爾雅の文なり。故に李巡注して曰く、「木の叢生するを灌と曰う」と。爾雅の末章に又た云う、「木の族生するを灌と為す」と。族も亦た叢聚なり。所以に江南の詩の古本は皆な叢聚の叢と為す。而るに古の叢の字は最の字に似たり。近世の儒生、因って改めて最と為し、解して云う、「木の最も高長なる者なり」と。案ずるに衆家の爾雅及び詩を解するに、此を言う者無し。唯だ周続之の毛詩注のみ、音を徂会の反と為す。劉昌宗の詩注は、音を在公の反と為し、又た祖会の反と為す。皆な穿鑿と為し、爾雅の訓を失えり。
-
『顔氏家訓』書證詩に云う、「杕たる之の杜有り」と。江南の本は並びに木の傍らに大を施す。伝に曰く、「杕は、独貌なり」と。徐仙民の音は徒計の反。説文に曰く、「杕は、樹貌なり」と。木部に在り。韻集の音は次第の第。而るに河北の本は皆な夷狄の狄と為し、読むも亦た字の如し。此れ大いなる誤りなり。
-
『顔氏家訓』書證詩に云う、「参差たる荇菜」と。爾雅に云う、「荇は、接余なり」と。字は或いは莕と為す。先儒の解釈は皆な云う、「水草にして、円葉細茎、水の浅深に随う」と。今是の水に悉く之有り。黄花にして蓴に似たり。江南の俗にも亦た呼びて猪蓴と為し、或いは呼びて荇菜と為す。劉芳具さに注釈有り。而るに河北の俗人は多く之を識らず。博士は皆な参差たる者は是れ莧菜なりと以い、人莧を呼びて人荇と為す。亦た笑うべきの甚だしきなり。
-
『顔氏家訓』書證礼の王制に云う、「股肱を臝にす」と。鄭注に云う、「衣を揎げて其の臂脛を出だすを謂う」と。今の書は皆な擐甲の擐に作る。国子博士の蕭該云う、「擐は当に揎に作るべし。音は宣。擐は是れ穿著の名にして、臂を出だすの義に非ず」と。字林を案ずるに、蕭の読み是なり。徐爰の音患は、非なり。
-
『顔氏家訓』書證詩に云う、「誰か荼を苦しと謂う」と。爾雅・毛詩伝並びに荼を以て、苦菜なりとす。又た礼に云う、「苦菜秀ず」と。案ずるに、易統通卦験玄図に曰く、「苦菜は寒秋に生じ、冬を更え春を歴て、夏を得て乃ち成る」と。今の中原の苦菜は則ち此くの如し。一名を遊冬と曰う。葉は苦苣に似て細く、摘断すれば白汁有り。花は黄にして菊に似たり。
-
『顔氏家訓』書證漢書に云う、「中外禔福なり」と。字は当に示に従うべし。禔は、安なり。音は匙匕の匙。義は蒼雅・方言に見ゆ。河北の学士は皆な此くの如しと云う。而るに江南の書本は、多く誤りて手に従う。文を属する者の対耦は、並びに提挈の意と為す。恐らくは誤りと為さん。