顔氏家訓 / 書證
有人訪吾曰:「魏志蔣濟上書云『弊(支力)之民』、是何字也?」余應之曰:「意爲(支力)即是(危皮)倦之(危皮)耳。張揖、呂忱並云:『支傍作刀劍之刀、亦是剞字。』不知蔣氏自造支傍作筋力之力、或借剞字、終當音九僞反。」
新字:有人訪吾曰:「魏志蔣済上書云『弊(支力)之民』、是何字也?」余応之曰:「意為(支力)即是(危皮)倦之(危皮)耳。張揖、呂忱並云:『支傍作刀剣之刀、亦是剞字。』不知蔣氏自造支傍作筋力之力、或借剞字、終当音九偽反。」
書き下し
人有りて吾を訪いて曰く、「魏志の蔣済の上書に云う『弊(支に力)の民』とは、是れ何の字なるや」と。余之に応えて曰く、「意うに(支に力)は即ち是れ(危に皮)倦の(危に皮)なるのみと為す。張揖・呂忱並びに云う、『支の傍らに刀剣の刀を作るは、亦た是れ剞の字なり』と。知らず、蔣氏自ら支の傍らに筋力の力を造るか、或いは剞の字を借りるか。終に当に九偽の反と音すべし」と。
現代語訳
ある人が私を訪ねて言った。「『魏志』の蔣済の上書にいう『弊○の民』とは、どういう字ですか」。私は答えて言った。「思うにこの字は、疲れ倦むという意味の字であろう。張揖と呂忱はどちらも『支の傍らに刀剣の刀を書くのは、これも剞の字である』という。蔣済が自分で支の傍らに筋力の力を書いて作ったのか、あるいは剞の字を借りたのかは分からない。いずれにせよ音は九偽の反とすべきである」。
解説
原文の括弧書きは、活字にできない字を部品で説明したものです。支に力を組み合わせた字が『魏志』にあり、それが何かと問われた。顔之推の答え方が誠実です。まず意味の見当を付け、次に字書の記述を挙げ、そして「蔣済が自作したのか、既存の字を借りたのかは分からない」と正直に述べる。分からない部分を分からないまま残したうえで、音だけは確定させています。全部を答えられないときに、答えられる範囲と答えられない範囲を分けて示す。分からないことを曖昧にごまかさずに、確定できた部分だけを渡すほうが、受け取る側は使えます。
この章句が説くこと
弊○の民疲れ倦むの意蔣氏自ら造るか剞の字を借るか分かる範囲と分からない範囲
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