顔氏家訓 / 文章
後漢書:「囚司徒崔烈以鋃鐺鎖。」鋃鐺、大鎖也、世間多誤作金銀字。武烈太子亦是數千卷學士、嘗作詩云:「銀鎖三公腳、刀撞僕射頭。」為俗所誤。
新字:後漢書:「囚司徒崔烈以鋃鐺鎖。」鋃鐺、大鎖也、世間多誤作金銀字。武烈太子亦是数千巻学士、嘗作詩云:「銀鎖三公腳、刀撞僕射頭。」為俗所誤。
書き下し
後漢書に、「司徒崔烈を囚うるに鋃鐺の鎖を以てす」と。鋃鐺は大鎖なり。世間多く誤りて金銀の字と作す。武烈太子も亦た是れ数千巻の学士なり。嘗て詩を作りて云う、「銀は三公の脚を鎖し、刀は僕射の頭を撞く」と。俗の誤る所と為れり。
現代語訳
『後漢書』に「司徒の崔烈を捕らえるのに鋃鐺の鎖を用いた」とある。鋃鐺とは大きな鎖のことである。世間では多く誤って、金銀の「銀」の字と書く。武烈太子もまた数千巻を読んだ学者であった。かつて詩を作ってこう詠んだ。「銀は三公の脚を鎖し、刀は僕射の頭を撞く」。世間の誤りに引きずられたのである。
解説
「鋃鐺」は大きな鎖を表す語で、金偏が二つ並ぶだけです。それを「銀」と読み違えて、大臣の脚を銀の鎖でつないだ、という華やかな誤解が生まれました。しかも間違えたのは数千巻を読んだ学者である武烈太子です。顔之推の評は「俗の誤る所と為れり」——世間の誤りに引きずられた。個人の不勉強ではなく、周囲の共通認識に取り込まれたという診断です。これがこの一連の指摘の中で最も怖い。自分で調べる人でも、周りの全員が同じ誤りを共有していると、そこだけは疑わなくなります。業界で当たり前とされている前提ほど、一度は原典に当たる価値があります。
この章句が説くこと
鋃鐺は大鎖なり銀は三公の脚を鎖す俗の誤る所と為る共有された誤り
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