顔氏家訓 / 文章
挽歌辭者、或云古者虞殯之歌、或云出自田橫之客、皆為生者悼往告哀之意。陸平原多為死人自嘆之言、詩格既無此例、又乖製作本意。
新字:挽歌辞者、或云古者虞殯之歌、或云出自田横之客、皆為生者悼往告哀之意。陸平原多為死人自嘆之言、詩格既無此例、又乖製作本意。
書き下し
挽歌の辞なる者は、或いは古者虞殯の歌と云い、或いは田横の客より出づと云う。皆な生者の往を悼み哀を告ぐるの意を為す。陸平原は多く死人自ら嘆くの言を為る。詩格に既に此の例無く、又た製作の本意に乖けり。
現代語訳
挽歌の詞というものは、あるいは古い虞殯の歌だといい、あるいは田横の食客から始まったという。どちらも、生きている者が亡き人を悼み悲しみを告げる意味のものである。陸機は多く、死んだ人が自分で嘆く言葉として作った。詩の格式にそういう例はなく、また作られた本来の意図からも外れている。
解説
挽歌は誰の声で歌われるものか、という一段です。もともとは生きている者が死者を悼む形式でした。陸機はそれを、死者が自分で嘆く形で書いた。顔之推は、格式にも本来の意図にも合わないと退けます。形式には、誰の視点で語るかという設定が組み込まれている。それを変えると、同じ言葉でも別のものになります。追悼文、社告、謝罪文にも同じことが言えます。誰の声として書くかを外すと、読み手は違和感を覚えます。感情がこもっているかどうかより、語り手の位置が正しいかどうかが先に効きます。
この章句が説くこと
挽歌の辞生者の悼往告哀陸平原語り手の位置公平
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