顔氏家訓 / 勉學
莊生有乘時鵲起之說、故謝朓詩曰:「鵲起登吳臺。」吾有一親表、作七夕詩云:「今夜吳臺鵲、亦共往填河。」羅浮山記云:「望平地樹如薺。」故戴暠詩云:「長安樹如薺。」又鄴下有一人詠樹詩云:「遙望長安薺。」又嘗見謂矜誕為誇毗、呼高年為富有春秋、皆耳學之過也。
新字:荘生有乗時鵲起之説、故謝朓詩曰:「鵲起登吳台。」吾有一親表、作七夕詩云:「今夜吳台鵲、亦共往填河。」羅浮山記云:「望平地樹如薺。」故戴暠詩云:「長安樹如薺。」又鄴下有一人詠樹詩云:「遥望長安薺。」又嘗見謂矜誕為誇毗、呼高年為富有春秋、皆耳学之過也。
書き下し
荘生に時に乗じて鵲起するの説有り。故に謝朓の詩に曰く、「鵲起して呉台に登る」と。吾に一親表有り、七夕の詩を作りて云う、「今夜呉台の鵲、亦た共に往きて河を填めん」と。羅浮山記に云う、「平地を望めば樹は薺の如し」と。故に戴暠の詩に云う、「長安の樹は薺の如し」と。又た鄴下に一人有り、樹を詠ずる詩に云う、「遥かに長安の薺を望む」と。又た嘗て矜誕を謂いて誇毗と為し、高年を呼びて富有春秋と為すを見る。皆な耳学の過ちなり。
現代語訳
荘子に、時機に乗じて鵲のように飛び立つという説がある。だから謝朓の詩に「鵲起して呉台に登る」とある。私の親戚に一人、七夕の詩を作ってこう詠んだ者がいる。「今夜の呉台の鵲も、いっしょに天の川を埋めに行くだろう」。『羅浮山記』にいう。「平地を見下ろすと樹は薺のように見える」。だから戴暠の詩に「長安の樹は薺のようだ」とある。ところが鄴にある人がいて、樹を詠んだ詩にこう書いた。「遥かに長安の薺を望む」。また、うぬぼれて大言することを「誇毗」と言い、高齢であることを「富有春秋」と呼ぶのを見たことがある。どれも耳学問の誤りである。
解説
耳学問の具体例が続きます。荘子の「鵲起」は時機に乗じることの比喩なのに、それを本物の鵲だと思って七夕の詩に詠み込む。「樹が薺のように見える」という遠望の描写を、「長安の薺」という実在の植物にしてしまう。比喩が実体に読み替えられていくさまが並べられています。誤りの型は同じで、元の文脈を知らずに語だけを取ってきたことです。しかも本人は、詩に古典を踏まえたつもりでいる。比喩として使われた言葉を、実体として引き継いでしまう現象は、経営用語でもよく起こります。もとは比喩だった語が、いつのまにか実在するものとして扱われていないかを確かめることです。
この章句が説くこと
鵲起長安の樹は薺の如し遥かに長安の薺を望む耳学の過ち学問
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