顔氏家訓 / 風操
梁世被繫劾者、子孫弟姪、皆詣闕三日、露跣陳謝、子孫有官、自陳解職。子則草屩麤衣、蓬頭垢面、周章道路、要候執事、叩頭流血、申訴冤枉。若配徒隸、諸子幷立草庵於所署門、不敢寧宅、動經旬日、官司驅遣、然後始退。
新字:梁世被繋劾者、子孫弟姪、皆詣闕三日、露跣陳謝、子孫有官、自陳解職。子則草屩麤衣、蓬頭垢面、周章道路、要候執事、叩頭流血、申訴冤枉。若配徒隸、諸子幷立草庵於所署門、不敢寧宅、動経旬日、官司駆遣、然後始退。
書き下し
梁世に繋劾せらるる者は、子孫弟姪、皆な闕に詣ること三日、露跣にして陳謝す。子孫に官有れば、自ら陳べて職を解く。子は則ち草屩麤衣、蓬頭垢面にして、道路に周章し、執事を要候し、叩頭流血して、冤枉を申訴す。若し徒隷に配せらるれば、諸子並びに草庵を署の門に立て、敢えて宅に寧んぜず。動もすれば旬日を経、官司駆遣して、然る後に始めて退く。
現代語訳
梁の時代に弾劾されて拘禁された者があると、その子孫や弟や甥は、みな三日のあいだ宮門に詣で、素肌をさらし裸足で謝罪した。子孫に官職があれば、自ら申し出て職を解いた。子は草履に粗末な衣、乱れた髪に汚れた顔で、道々を歩き回り、担当の役人を待ち受け、額を地に打ちつけて血を流しながら、無実を訴えた。もし労役に処せられれば、子らはそろって役所の門前に草庵を建て、あえて家に落ち着こうとしなかった。しばしば十日ほども続き、役人に追い払われて、ようやく引き下がった。
解説
身内が弾劾されたときの、江南での振る舞い方です。子や甥が宮門に詣で、官職を自ら返上し、額から血を流して訴え、労役が決まれば役所の門前に小屋を建てて居座る。ここまでやるのが当然とされていました。これは情の発露であると同時に、社会的な表明でもあります。家がその人を見捨てていないことを、公衆の面前で示す。逆にいえば、これをしない家は見捨てたと見なされる。組織の一員が窮地に陥ったとき、周囲がどう振る舞うかは、当人への支援であると同時に、外に対する組織の宣言でもあります。何もしないことも、一つの宣言として受け取られます。
この章句が説くこと
露跣陳謝草庵を署門に立つ叩頭流血沈黙という宣言
関連する章句
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