学問のすゝめ / 十四編・世話の字の義・経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ
右のごとく議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のためここに数言を付せん。修身道徳の教えにおいてはあるいは経済の法と相戻るがごときものあり。けだし一身の私徳は悉皆天下の経済にさし響くものにあらず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、あるいは貧人の憐れむべき者を見れば、その人の来歴をも問わずして多少の財物を給することあり。そのこれを投与しこれを給するはすなわち保護の世話なれども、この保護は指図とともに行なわるるものにあらず、考えの領分を窮屈にしてただ経済上の公をもってこれを論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳において恵与の心はもっとも貴ぶべく最も好みすべきものなり。譬えば天下に乞食を禁ずるの法はもとより公明正大なるものなれども、人々の私において乞食に物を与えんとするの心は咎むべからず。人間万事算盤を用いて決定すべきものにあらず、ただその用ゆべき場所と用ゆべからざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ。
書き下し
右のごとく議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のためここに数言を付せん。修身道徳の教えにおいてはあるいは経済の法と相戻るがごときものあり。けだし一身の私徳は悉皆天下の経済にさし響くものにあらず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、あるいは貧人の憐れむべき者を見れば、その人の来歴をも問わずして多少の財物を給することあり。そのこれを投与しこれを給するはすなわち保護の世話なれども、この保護は指図とともに行なわるるものにあらず、考えの領分を窮屈にしてただ経済上の公をもってこれを論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳において恵与の心はもっとも貴ぶべく最も好みすべきものなり。譬えば天下に乞食を禁ずるの法はもとより公明正大なるものなれども、人々の私において乞食に物を与えんとするの心は咎むべからず。人間万事算盤を用いて決定すべきものにあらず、ただその用ゆべき場所と用ゆべからざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ。
現代語訳
右のように議論は立てましたが、世の人の誤解を恐れて念のためここに数言を付けましょう。修身道徳の教えにおいては、あるいは経済の法と食い違うようなものがあります。思うに一身の私的な徳はすべてが天下の経済に響くものではありません。見ず知らずの乞食に銭を投げ与え、あるいは貧しく憐れむべき者を見れば、その人の来歴も問わずに多少の財物を与えることがあります。それを与えるのは保護の世話ですが、この保護は指図とともに行われるものではない。考えの領分を窮屈にして経済上の公の観点だけで論じれば不都合のようですが、一身の私的な徳において恵み与える心は最も貴ぶべく、最も好ましいものです。たとえば天下に乞食を禁じる法はもとより公明正大なものですが、人々が私的に乞食に物を与えようとする心は咎めてはなりません。人の万事は算盤で決定すべきものではなく、ただそれを用いるべき場所と用いるべきでない場所を区別することが大切なだけです。世の学者よ、経済の公論に酔って恵みの私徳を忘れてはなりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『学問のすゝめ』十四編・世話の字の義・名を買わんとして実を失うものこの類を求めて例を挙ぐればいちいち計うるに遑あらず。この「世話」の字義は経済論のもっとも大切なる箇条なれば、人間の渡世において、その職業の異同事柄の軽重にかかわらず、常にこれに注意せざるべからず。あるいはこの議論はまったく算盤ずくにて薄情なるに似たれども、薄くすべきところを無理に厚くせんとし、あるいはその実の薄きを顧みずしてその名を厚くせんとし、かえって人間の至情を害して世の交際を苦々しくするがごときは、名を買わんとして実を失うものと言うべし。
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『学問のすゝめ』十四編・世話の字の義・保護の至るところはすなわち指図の及ぶところゆえに保護と指図とは両ながらその至るところをともにし、寸分も境界を誤るべからず。保護の至るところはすなわち指図の及ぶところなり。指図の及ぶところは必ず保護の至るところならざるを得ず。もし然らずしてこの二者の至り及ぶところの度を誤り、わずかに齟齬することあれば、たちまち不都合を生じて禍の原因となるべし。世間にその例少なからず。けだしその所以は、世の人々常に世話の字の義を誤りて、あるいは保護の意味に解し、あるいは指図の意味に解し、ただ一方にのみ偏して文字のまったき義を尽くすことなく、もって大なる間違いに及びたるなり。
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『学問のすゝめ』十四編・世話の字の義・保護と指図と両様の義を備えて右のごとく世話の字に、保護と指図と両様の義を備えて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中は円く治まるべし。譬えば父母の子供におけるがごとく、衣食を与えて保護の世話をすれば、子供は父母の言うことを聞きて指図を受け、親子の間柄に不都合あることなし。また政府にては法律を設けて、国民の生命と面目と私有とを大切に取り扱い、一般の安全を謀りて保護の世話をなし、人民は政府の命令に従いて指図の世話に戻ることあらざれば、公私の間円く治まるべし。
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『学問のすゝめ』十四編・世話の字の義・諺にいわゆる大きに御苦労また世に貧民救助とて、人物の良否を問わず、その貧乏の原因を尋ねず、ただ貧乏の有様を見て米銭を与うることあり。鰥寡孤独、実に頼るところなき者へは救助も尤もなれども、五升の御救米を貰うて三升は酒にして飲む者なきにあらず。禁酒の指図もできずしてみだりに米を与うるは、指図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。諺にいわゆる「大きに御苦労」とはこのことなり。英国などにても救窮の法に困却するはこの一条なりという。
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『学問のすゝめ』十四編・世話の字の義・世話の字に二つの意味あり世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。保護とは人の事につき、傍より番をして防ぎ護り、あるいはこれに財物を与え、あるいはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを指図し、不便利ならんと思うことには意見を加え、心の丈を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・その交際に害あるものは怨望より大なるはなしおよそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。貪吝、奢侈、誹謗の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。これを施すべき場所柄と、その強弱の度と、その向かうところの方角とによりて、不徳の名を免るることあり。譬えば銭を好んで飽くことを知らざるを貪吝と言う。されども銭を好むは人の天性なれば、その天性に従いて十分にこれを満足せしめんとするもけっして咎むべきにあらず。ただ理外の銭を得んとしてその場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出で、銭を求むるの方向に迷うて理に反するときは、これを貪吝の不徳と名づくるのみ。ゆえに銭を好む心の働きを見て、直ちに不徳の名をくだすべからず。その徳と不徳との分界には一片の道理なるものありて、この分界の内にあるものはすなわちこれを節倹と言い、また経済と称して、まさに人間の勉むべき美徳の一ヵ条なり。