学問のすゝめ / 十三編・怨望の人間に害あるを論ず・富貴は怨みの府にあらず
怨望の人間交際に害あることかくのごとし。今その原因を尋ぬるに、ただ窮の一事にあり。ただしその窮とは困窮、貧窮等の窮にあらず、人の言路を塞ぎ、人の業作を妨ぐる等のごとく、人類天然の働きを窮せしむることなり。貧窮、困窮をもって怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆不平を訴え、富貴はあたかも怨みの府にして、人間の交際は一日も保つべからざるはずなれども、事実においてけっして然らず、いかに貧賤なる者にても、その貧にして賤しき所以の原因を知り、その原因の己が身より生じたることを了解すれば、けっしてみだりに他人を怨望するものにあらず。その証拠はことさらに掲示するに及ばず、今日世界中に貧富・貴賤の差ありて、よく人間の交際を保つを見て、明らかにこれを知るべし。ゆえにいわく、富貴は怨みの府にあらず、貧賤は不平の源にあらざるなり。
書き下し
怨望の人間交際に害あることかくのごとし。今その原因を尋ぬるに、ただ窮の一事にあり。ただしその窮とは困窮、貧窮等の窮にあらず、人の言路を塞ぎ、人の業作を妨ぐる等のごとく、人類天然の働きを窮せしむることなり。貧窮、困窮をもって怨望の源とせば、天下の貧民は悉皆不平を訴え、富貴はあたかも怨みの府にして、人間の交際は一日も保つべからざるはずなれども、事実においてけっして然らず、いかに貧賤なる者にても、その貧にして賤しき所以の原因を知り、その原因の己が身より生じたることを了解すれば、けっしてみだりに他人を怨望するものにあらず。その証拠はことさらに掲示するに及ばず、今日世界中に貧富・貴賤の差ありて、よく人間の交際を保つを見て、明らかにこれを知るべし。ゆえにいわく、富貴は怨みの府にあらず、貧賤は不平の源にあらざるなり。
現代語訳
怨望が人の交わりに害があることはこの通りです。今その原因を尋ねると、ただ窮という一事にあります。ただしその窮とは困窮や貧窮の窮ではなく、人の言論の道を塞ぎ、人の仕事を妨げるなど、人類の自然の働きを窮屈にさせることです。貧窮や困窮を怨望の源とするなら、天下の貧しい民はことごとく不平を訴え、富貴はまるで怨みの巣窟となって、人の交わりは一日も保てないはずですが、事実は決してそうではありません。どんなに貧しく身分が低い者でも、その貧しく賤しい理由を知り、その原因が自分の身から生じたと理解すれば、決してみだりに他人を怨むものではありません。その証拠はわざわざ挙げるまでもなく、今日世界中に貧富や貴賤の差がありながらよく人の交わりが保たれているのを見て、はっきり知るべきです。ですから言います。富貴は怨みの巣窟ではなく、貧賤は不平の源ではないのです。
解説
この章句が説くこと
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論語・衛霊公篇子曰く、由、徳を知る者は鮮なし。
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・怨望は働きの陰なるものにて右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。譬えば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足するところあれば、わが有様を進めて満足するの法を求めずして、かえって他人を不幸に陥れ、他人の有様を下して、もって彼我の平均をなさんと欲するがごとし。いわゆるこれを悪んでその死を欲するとはこのことなり。ゆえにこの輩の不平を満足せしむれば、世上一般の幸福をば損ずるのみにて少しも益するところあるべからず。
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・女子と小人とは近づけ難しこれによりて考うれば怨望は貧賤によりて生ずるものにあらず。ただ人類天然の働きを塞ぎて、禍福の来去みな偶然に係るべき地位においてはなはだしく流行するのみ。昔孔子が「女子と小人とは近づけ難し、さてさて困り入りたることかな」とて歎息したることあり。今をもって考うるに、これ夫子みずから事を起こしてみずからその弊害を述べたるものと言うべし。人の心の性は男子も女子も異なるの理なし。また小人とは下人と言うことならんか。下人の腹から出でたる者は必ず下人と定まりたるにあらず。下人も貴人も生まれ落ちたる時の性に異同あらざるはもとより論を俟たず。しかるにこの女子と下人とに限りて取扱いに困るとは何ゆえぞ。平生卑屈の旨をもってあまねく人民に教え、小弱なる婦人・下人の輩を束縛して、その働きに毫も自由を得せしめざるがために、ついに怨望の気風を醸成し、その極度に至りてさすがに孔子さまも歎息せられたることなり。
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・自由に言わしめ自由に働かしめ右の次第をもって考うれば、言路を塞ぎ、業作を妨ぐるのことは、ひとり政府のみの病にあらず、全国人民の間に流行するものにて、学者といえども、あるいはこれを免れ難し。人生活発の気力は物に接せざれば生じ難し。自由に言わしめ、自由に働かしめ、富貴も貧賤もただ本人のみずから取るにまかして、他よりこれを妨ぐべからざるなり。
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・怨望はあたかも衆悪の母のごとく或る人いわく、「欺詐虚言の悪事も、その実質において悪なるものなれば、これを怨望に比していずれか軽重の別あるべからず」と。答えていわく、「まことに然るがごとしといえども、事の原因と事の結果とを区別すれば、おのずから軽重の別なしと言うべからず。欺詐虚言はもとより大悪事たりといえども、必ずしも怨望を生ずるの原因にはあらずして、多くは怨望によりて生じたる結果なり。怨望はあたかも衆悪の母のごとく、人間の悪事これによりて生ずべからざるものなし。疑猜、嫉妬、恐怖、卑怯の類は、みな怨望より生ずるものにて、その内形に見わるるところは、私語、密話、内談、秘計、その外形に破裂するところは、徒党、暗殺、一揆、内乱、秋毫も国に益すことなくして、禍の全国に波及するに至りては主客ともに免るることを得ず。いわゆる公利の費をもって私を逞しゅうするものと言うべし」
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『学問のすゝめ』十三編・怨望の人間に害あるを論ず・人の言路は開かざるべからず右御殿女中の一例を見ても大抵、世の中の有様は推して知るべし。人間最大の禍は怨望にありて、怨望の源は窮より生ずるものなれば、人の言路は開かざるべからず、人の業作は妨ぐべからず。試みに英亜諸国の有様とわが日本の有様とを比較して、その人間の交際において、いずれかよくかの御殿の趣を脱したるやと問う者あらば、余輩は今の日本を目してまったく御殿に異ならずと言うにはあらざれども、その境界を去るの遠近を論ずれば、日本はなおこれに近く、英亜諸国はこれを去ること遠しと言わざるを得ず。英亜の人民、貪吝驕奢ならざるにあらず、粗野乱暴ならざるにあらず、あるいは詐る者あり、あるいは欺く者ありて、その風俗けっして善美ならずといえども、ただ怨望隠伏の一事に至りては必ずわが国と趣を異にするところあるべし。