学問のすゝめ / 十三編・怨望の人間に害あるを論ず・積んでよく散じ散じて則を踰えざる者
奢侈もまたかくのごとし。ただ身の分限を越ゆると否とによりて、徳不徳の名をくだすべきのみ。軽暖を着て安宅に居るを好むは人の性情なり。天理に従いてこの情欲を慰むるに、なんぞこれを不徳と言うべけんや。積んでよく散じ、散じて則を踰えざる者は、人間の美事と称すべきなり。
書き下し
奢侈もまたかくのごとし。ただ身の分限を越ゆると否とによりて、徳不徳の名をくだすべきのみ。軽暖を着て安宅に居るを好むは人の性情なり。天理に従いてこの情欲を慰むるに、なんぞこれを不徳と言うべけんや。積んでよく散じ、散じて則を踰えざる者は、人間の美事と称すべきなり。
現代語訳
奢侈もまたこの通りです。ただ身の分限を越えるかどうかによって、徳か不徳かの名を下すべきだけです。軽くて暖かい衣を着て安らかな家に住むのを好むのは人の性情です。天の理に従ってこの情欲を慰めるのに、どうしてこれを不徳と言えましょうか。積んでよく散じ、散じて法則を越えない者は、人として美しい事と称すべきです。
解説
奢侈も同じ枠で扱われます。良い衣と良い住まいを好むのは人の性情だから、それ自体は不徳ではない。分限を越えるかどうかだけが分かれ目だ、と。そして理想の姿が一句で示されます。積んでよく散じ、散じて法則を越えない。貯めることも使うこともでき、しかも度を失わない。富の扱い方についての、簡潔で使いやすい基準になっています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
奢侈分限性情散財均衡
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『家道訓』巻之六・用財下一倹約にして、我身におごりなきをば徳と云ふ。人これをよろこぶ。もし人に対して、財ををしみて、人にほどこさず人にうすくして、礼にあたらざるをば、人皆いやしみそしる。是不徳なり、吝嗇と云ふ。倹約をあしく心得て吝嗇とする者あり、倹約に事よせて吝嗇なるもあり。皆不徳なり。
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