学問のすゝめ / 五編・明治七年一月一日の詞・かえってこれを威民の具とみなして
いま政府に常備の兵隊あり、人民これを認めて護国の兵となし、その盛んなるを祝して意気揚々たるべきはずなるに、かえってこれを威民の具とみなして恐怖するのみ。いま政府に学校、鉄道あり、人民これを一国文明の徴として誇るべきはずなるに、かえってこれを政府の私恩に帰し、ますますその賜に依頼するの心を増すのみ。人民すでに自国の政府に対して萎縮震慄の心をいだけり、豈外国に競うて文明を争うに遑あらんや。ゆえにいわく、人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かえって民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
書き下し
いま政府に常備の兵隊あり、人民これを認めて護国の兵となし、その盛んなるを祝して意気揚々たるべきはずなるに、かえってこれを威民の具とみなして恐怖するのみ。いま政府に学校、鉄道あり、人民これを一国文明の徴として誇るべきはずなるに、かえってこれを政府の私恩に帰し、ますますその賜に依頼するの心を増すのみ。人民すでに自国の政府に対して萎縮震慄の心をいだけり、豈外国に競うて文明を争うに遑あらんや。ゆえにいわく、人民に独立の気力あらざれば文明の形を作るもただに無用の長物のみならず、かえって民心を退縮せしむるの具となるべきなり。
現代語訳
今、政府に常備の兵隊があり、人民はこれを国を守る兵と認めて、その盛んなことを祝し意気揚々とするはずなのに、かえってこれを民を威圧する道具とみなして恐れるだけです。今、政府に学校や鉄道があり、人民はこれを一国の文明のしるしとして誇るはずなのに、かえってこれを政府の私的な恩恵に帰して、ますますその賜物に頼る心を増すだけです。人民はすでに自国の政府に対して萎縮し震える心を抱いています。どうして外国と競って文明を争う余裕がありましょうか。ですから言います。人民に独立の気力がなければ、文明の形を作ってもただ無用の長物であるばかりか、かえって民心を退縮させる道具となるのです。
解説
同じ物が正反対に受け取られる例が二つ挙がります。国を守るはずの兵が威圧の道具に見え、文明のしるしであるはずの学校や鉄道が私的な恩恵に見える。気力がなければ、何を与えられても萎縮の材料になるということです。そして結論が一段強められます。形は無用であるばかりか、かえって民心を縮める道具になる、と。無用から有害へ、という一段の踏み込みがここで起きています。
この章句が説くこと
受取り方萎縮恩恵逆効果気力
関連する章句
-
『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
-
『韓非子』難二第三十七紂は其の大いに人心を得るを以てして之を悪むに、己又地を軽んじて以て人心を收むるは、是れ重ねて疑わるるなり。
-
『韓非子』外儲說左下第三十三肉を以て蟻を去らば蟻愈々多く、魚を以て蝿を驅らば蝿愈々至らん。
-
『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾或るひと其の故を問う。子由曰く、獨り鄭昌の蓋寛饒を救うを見ずや。其の疏に云う有り、上に許・史の屬無く下に金・張の託無しと。此の語は正に是れ宣帝の怒りを激するのみ。且つ寛饒は正に許・史の輩を犯すを以て此の禍有り。今乃ち再び之を訐く。是れ其の怒りを益すなり。且つ東坡に何の罪かある。獨り名の太だ髙きを以て朝廷と勝ちを爭うのみ。今安道の疏は乃ち其れ實に天下の奇材なりと云う。獨り人主の怒りを激せざらんやと。
-
『宋名臣言行録』後集巻六・王安石公科舉を改む。暮年乃ち其の失を覺りて曰く、本と學究を變じて秀才と爲さんと欲す。謂わざりき、秀才を變じて學究と爲さんとはと。蓋し舉子は專ら王氏の章句を誦して義を解せず。正に學究の注疏を誦するが如きのみ。
-
『淮南子』氾論訓宋人に子を嫁がしむる者有り。其の子に告げて曰く、「嫁は未だ必ずしも成らざるなり。如し出さるること有らば、私かに藏せざる可からず。私かに藏して富まば、其れ以て復た嫁ぐに易からん」と。其の子 父の計を聽き、竊みて之を藏す。公 其の盜むを知るが若く、逐いて之を去らしむ。其の父 自ら非とせずして、反って其の計を得たりとす。出でて財を藏する所以を知りて、財を藏するが出さるる所以なるを知らず。論を爲すこと此くの如きは、豈に勃ならずや。今夫れ僦載する者は、一車の任を救い、一牛の力を極む。軸の折るるが爲に、如し轅軸を其の上にして以て造と爲すこと有れば、軸轅の趣に軸を折らしむるを知らず。楚王の玦を佩びて菟を逐うに、走りて其の玦を破るが爲に、因りて兩玦を珮びて以て之が豫と爲す。兩玦 相い觸れて、破るること乃ち逾々疾し。亂國の治、此に似たる有り。夫れ鴟の目は大なるも視ること鼠に若かず。蚈の足は眾きも走ること蛇に若かず。物 固より大なるも小に若かず、眾きも少なきに若かざる者有り。