学問のすゝめ / 初編・広く世間に布告せば
端書このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。明治四年未十二月福沢諭吉記小幡篤次郎
書き下し
端書。このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため、一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せば、その益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。明治四年未十二月。福沢諭吉、小幡篤次郎。
現代語訳
追記。このたび私たちの故郷である中津に学校を開くにあたり、学問の趣旨を記して、古くから交わりのある同郷の友人に示すために一冊を綴りました。ところがある人がこれを見て、この冊子を中津の人だけに示すより、広く世間に知らせたほうが、その益もまた広いだろう、と勧めてくれたので、慶応義塾の活字版でこれを刷り、同志の方々にご覧いただくことにしました。明治四年十二月。福沢諭吉、小幡篤次郎。
解説
日本近代でもっとも読まれた本の一つが、どう世に出たかの記録です。もともとは故郷の友人に配るための一冊でした。それを、人に勧められて広く刷った。師導の『後世への最大遺物』も、内村鑑三が本にする必要はないと思っていたものを友人の勧めで出しています。同じ時期の二冊が、どちらも当人の意志ではなく他人の後押しで世に出たのは示唆的です。共著者として小幡篤次郎の名が並ぶことも記録されています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
刊行中津勧め共著経緯
関連する章句
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『学問のすゝめ』初編・ともに全国の太平を護らん今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきて、まず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得て、ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問も、もっぱらこの一事をもって趣旨とせり。
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『学問のすゝめ』二編・端書・字を読むことのみを勧むるにあらずこの書の表題は『学問のすすめ』と名づけたれども、けっして字を読むことのみを勧むるにあらず。書中に記すところは、西洋の諸書よりあるいはその文を直ちに訳し、あるいはその意を訳し、形あることにても形なきことにても、一般に人の心得となるべき事柄を挙げて学問の大趣意を示したるものなり。先に著わしたる一冊を初編となし、なおその意を拡めてこのたびの二編を綴り、次いで三、四編にも及ぶべし。
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『学問のすゝめ』五編・四、五の二編は学者を相手に『学問のすすめ』はもと民間の読本または小学の教授本に供えたるものなれば、初編より二編三編までも勉めて俗語を用い、文章を読みやすくするを趣意となしたりしが、四編に至り少しく文の体を改めて、あるいはむずかしき文字を用いたるところもあり。またこの五編も明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずして、あるいは解し難きの恐れなきにあらず。畢竟四、五の二編は学者を相手にして論を立てしものなるゆえ、この次第に及びたるなり。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第2段余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望すること切なれども、誰に向てその利害を説くべき路を知らず。故に今この冊子を記して、幸に華族その他有志者の目に触れ、為に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚というべきのみ。 一、維新の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人の目撃するところにして、これを記すはほとんど無益なるに似たれども、光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。故にこの冊子、たとい今日に陳腐なるも、五十年の後には却て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。 明治十年五月三十日 福沢諭吉 記 旧藩情 旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓(旧厩格)供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明に上下両等の間に分界を画すべき事実あり。すなわちその事実とは、
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修身要領・前書き文明日新の修身処世法は、いかなる主義により、いかなる方向に進むべきやとは、今の青年学生の大いに惑う所にして、先輩に対してしばしば質問を起こすものあり。福沢先生これに答うるためにとて、生らに嘱して文案を草せしむ。すなわち先生平素の言行に基づき、その大要を述べて、先生の閲覧を乞い、これを修身要領と名づけ、学生に示すこと左のごとし。 明治三十三年二月紀元節 慶応義塾社中某々誌
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福沢諭吉小品集・成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ・第1段左の一篇は、去る一三日、東京芝区三田二丁目慶応義塾邸内演説館において、福沢先生が同塾学生に向て演説の筆記なり。 学問に志して業を卒りたらば、その身そのまま即身実業の人たるべしとは、余が毎に諸氏に勧告するところにして、毎度の説法、聴くもわずらわしなど思う人もあるべけれども、余が身に経歴したる時勢の変遷を想回えして、近く第二世の事を案ずれば、他人のためならで、自身の情に自から禁ずること能わざるものあれば、これを諸氏に説き明らかにして、かねてまた諸氏の父兄にもこの意を通達せしめんと欲するものなり。 そもそも余は旧中津藩の士族にして、少小の時より藩士同様に漢書を学び、年二十歳ばかりにして始めて洋学に志したるは、今を去ることおよそ三十余年前なり。この時に洋書を読みはじめたるは、何の目的をもってしたるか、今において自から解すること能わず。 当時、世に洋学者なきにあらざれども、たいてい皆、医術研究のためにする者にして、前途の目的もあることなれども、余が如きはもと医家の子にあらず、また自分に医師たらんと欲する志もなし。ただわけもなく医学塾にいて、医学生とともに荷蘭の医書を講じ、物理を研究したるのみにして、かつこの洋学を勉むればこれによりて誉れを郷党朋友に得るかというに、決して然らざるのみならず、かえって公衆の怒に触るるくらいの時勢にして、はなはだ楽しからず。あるいはこれによりて身に利することあるやというに、これまた思いも寄らず。すでに誉れなく、また利益なし、何のために辛苦勤学したるやと尋ねらるれば、ただ今にても返答に困る次第なれども、一歩を進めて考うれば説なきにあらず。 すなわち余は日本の士族の子にして、士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具えたるは疑もなき事実にして、その気風とはただ出来難き事を好んでこれを勤むるの心、これなり。当時横文読むの業はきわめてむつかしきことにして、容易に出来難き学問なりしがゆえに、これを勤めたることならん。あるいは洋学ならで、ほかに何か困難なる事業もありて、偶然に思いつきたらば、その方に身を委ねたるやも知るべからず。