風姿花伝 / 第四 神祇
一 仏在所には須達長者祗園精舎をたてて供養のとき釈迦如来御説法ありしに提婆一万人の外道をともなひ木の枝篠の葉に幣を付けて踊り叫めば御供養宣べがたかりしに仏舎利弗に御目を加へ給へば仏力を受け御後戸にて鼓鉦鼓をととのへ阿難の才覚舎利弗の智恵富楼那の弁説にて六十六番の物まねをし給へば外道笛鼓の音を聞きて後戸にあつまりこれを見てしづまりぬその隙に如来供養を宣べ給へりそれより天竺にこの道は始まるなり
書き下し
一 仏在所には、須達長者祗園精舎をたてて供養のとき、釈迦如来御説法ありしに、提婆一万人の外道をともなひ、木の枝篠の葉に幣を付けて踊り叫めば、御供養宣べがたかりしに、仏舎利弗に御目を加へ給へば、仏力を受け御後戸にて鼓鉦鼓をととのへ、阿難の才覚、舎利弗の智恵、富楼那の弁説にて、六十六番の物まねをし給へば、外道笛鼓の音を聞きて後戸にあつまり、これを見てしづまりぬ。その隙に如来供養を宣べ給へり。それより天竺にこの道は始まるなり。
現代語訳
仏在所(インド)では、須達長者が祗園精舎を建てて供養を行ったとき、釈迦如来が御説法をなさったが、提婆達多が一万人の外道を連れてきて、木の枝や篠の葉に幣を付けて踊り叫んだので、御供養を続けにくくなった。そこで仏が舎利弗に御目を向けられると、舎利弗は仏力を受け、御堂の裏の後戸で鼓や鉦鼓を整え、阿難の才覚、舎利弗の智恵、富楼那の弁舌によって六十六番の物まねを演じられた。すると外道たちは笛や鼓の音を聞いて後戸に集まり、これを見て静まった。その隙に如来は供養を無事に述べ終えられた。これより天竺にこの道(申楽)が始まったのである。
解説
この一節は、申楽の起源をインドの仏教説話に求めるものです。祗園精舎の供養を妨げる外道たちを、舎利弗らが後戸で六十六番の物まねを演じて静め、その隙に説法を全うさせた、という由来を語ります。前節の神代の起源に続いて、『風姿花伝』第四「神祇」篇は、日本・インド・中国へと連なる芸能の系譜を築き、申楽に仏法を守る神聖な使命を与えます。ここで注目したいのは、正面から争わず、芸によって人々の関心を引きつけ、場を鎮めるという知恵です。妨げるものと直接ぶつかるのではなく、魅力ある表現で人の心を惹き、状況を転換する。これは現代の交渉や合意形成にも応用できる、しなやかな問題解決の型といえます。
この章句が説くこと
仏在所祗園精舎舎利弗外道六十六番物まね
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