福沢諭吉小品集 / 故社員の一言今尚精神・第2段
斯る世上の有様なれば、在江戸の人にして苟も横浜在留の西洋人に知る者あれば、西洋人も亦私に之を保護せんとするの情を抱き、或は仮に某国の籍に入れと云う者あり、或はその印鑑を与えて万一危急のときはこの印鑑を官軍に示して一時を免かれよと云う者あり。何れも皆深切の情に出ることにして、敢て奸策とは云うべからず。我義塾の如きも固より外人に知る者多ければその顧る所と為りて、或る日某氏より態と印鑑を贈り来りしは、全くその友情に出たるものより外ならざるなり。
書き下し
斯る世上の有様なれば、在江戸の人にして苟も横浜在留の西洋人に知る者あれば、西洋人も亦私に之を保護せんとするの情を抱き、或は仮に某国の籍に入れと云う者あり、或はその印鑑を与えて万一危急のときはこの印鑑を官軍に示して一時を免かれよと云う者あり。何れも皆深切の情に出ることにして、敢て奸策とは云うべからず。我義塾の如きも固より外人に知る者多ければその顧る所と為りて、或る日某氏より態と印鑑を贈り来りしは、全くその友情に出たるものより外ならざるなり。
現代語訳
このような世の中の有様ですから、江戸にいる人で、もし横浜に在留する西洋人を知っている者があれば、西洋人もまたひそかにこれを保護しようという情を抱き、あるいは仮にある国の籍に入れと言う者があり、あるいはその印鑑を与えて、万一危急のときはこの印鑑を官軍に示して一時を免れよ、と言う者もありました。いずれも皆、深い親切の情から出たことであり、決して奸策とは言えません。我が義塾なども、もとより外国人に知り合いが多いので、その配慮を受けることになり、ある日、ある人からわざわざ印鑑を贈ってきたのは、まったくその友情から出たものにほかなりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福沢諭吉小品集・故社員の一言今尚精神・第1段明治元年正月、伏見の変乱、前将軍慶喜公は軍艦に乗て東帰、次で諸方の官軍は問罪として東海東山の諸道より江戸に入り、関東の物論沸くが如く、怒て官兵に抗せんとする者あり、恐れて四方に遁逃する者あり。江戸広しと雖ども、市に売る者なし、家に織る者なし。学者書生の如きもその行く所を知らず、大都会中復た一所の学校を見ず、一名の学士に逢わず。独り我慶応義塾の社中は、偶然の発意にして断じて世事に関せず、都下の東南芝新銭座の塾舎に相集りて眠食常に異ならず、弾丸雨飛の下、唔の声を絶たざること殆ど半年、社中自称して戦場中の一小桃源と云いしは蓋しこの時なりき。 この際に当て府下百万の人民は一時に方向を失い、固より官軍の何ものたるを知らず、仮令い東征の名義云々は伝聞するも、その官軍なるものが江戸に入たる上は何等の挙動あるべきや、之を測量すること甚だ易からず。数百年来未だ曽て見ざる所の軍事なれば、軍人とあれば必ず乱暴なるものならん、乱暴人は之を避くるに若かずとて、下等社会の群民は無論、上流の士人にても或は俄に家を挙げて藩地に帰る者あり、或は近郷に故旧あれば暫時これに身を寄する者あり。その中に就て独り西洋学者の流は深謀遠慮にして、窃に謂らく、官軍或は暴ならん、仮令い暴なりと雖ども西洋人に害を及ぼすことは彼輩の能する所に非ざるべし、左れば我輩の拠て以て頼む所は横浜にある外国人居留地の安全なるに若くものなしとて、該地に居を移す者日に多く、府民も亦この例に傚うて皆横浜に走り、浜の市中既に充満して、その東南なる北方村、本牧村等に及ぼし、一時はその地方にて家賃宿料の騰貴するに至れり。今日在東京の紳士学者にして既往を回想したらば自から之を記臆する輩も多からん、又或はその当局者もあらん。
-
福沢諭吉小品集・故社員の一言今尚精神・第3段時に本塾の教員小幡仁三郎(小幡篤次郎の実弟。明治四年亜米利加に遊学中不幸にして同六年彼地に物故。)この事を聞き、走て塾の広間に出て、顔色を変じ目を瞋らして同窓の諸友に告て曰く、諸君は今日の形勢を見て如何の観を為すや、東軍西軍相戦うならんと雖ども、畢竟日本国内の戦争にして唯是れ内乱なるぞ、我輩は文を事としてその戦争に関するなしと雖ども、内外の分は未だ之を忘れず、西軍或は暴ならん、東軍或は無法ならん、来て我輩に害を加えんとする者あらば、我亦男児なり、よく之を防がん、之を防て力足らざるときは唯一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、寧ろ同国人の刃に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処に在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点に在るのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは初より目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし、彼の印鑑の如きは速に之を火に投じて可なりとて、その語気凜々、決する所あるが如し。聞く者悚然として復た一言を発せず。之より社中の気風益固結して曽て動変することなく、爾後王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、報国致死は我社中の精神にして、今日我輩が専ら国権の議論を主唱するも、その由来一朝一夕に非ず、蓋し社中全体の気風なりとは雖ども、仁三郎君の一言亦重しと云うべし。往事回顧すれば十五年、社中君を喪うてより又十年、今の学友或は之を知らざる者もあらん。記して以て君の言行の一班を知らしめ、兼て天下国権論者の警に供す。
-
福翁自伝・王政維新・官賊の間に偏せず党せずそれで先ず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。併し政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑と云うことがあっては是れは容易ならぬ訳けであるから、ソレを明にする為めに、私は一切万事何も斯も打明けて、一口に云えば塾も住居も殻明きにして仕舞い、何処を捜した所で鉄砲は勿論一挺もなし、刃物もなければ飛道具もない、一目明白、直に分るようにしました。始終爾う云う身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も颯々と来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも一切構わぬ、何方に向ても依怙贔屓なしに扱て居るから、双方共に朋友でした。その時に斯う云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野に籠らぬ前に、市川辺に小競合がありました。爾うすると賊軍方の者が夜は其処に行て戦て、昼は睡いからと云て塾に来て寝て居た者があったが、根から構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マア止にした方が宜かろうと云たくらいのことである。
-
福沢諭吉小品集・旧藩情・第1段旧藩情緒言 一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を与にすといえども、動もすれば自から運動の遅速方向に心付かざること多し。ただ岸上より望観する者にして始てその精密なる趣を知るべし。中津の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居てかえって自からその動くところの趣に心付かず、不知不識以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊かその望観のままを記したるのみ。 一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態を記したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士と下士との軋轢あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害栄辱を与にして、公共のためを謀る者あるを聞かず。故に世上有志の士君子が、その郷里の事態を憂てこれが処置を工夫するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。 一、旧藩地に私立の学校を設るは余輩の多年企望するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄と旧官員の周旋とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡を以て見れば未だ失望の箇条もなく、先ず費したる財と労とに報る丈けの功をば奏したるものというべし。蓋し廃藩以来、士民が適として帰するところを失い、或はこれがためその品行を破て自暴自棄の境界にも陥るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立の景影だにも論ずべき場所として学校の設あれば、その状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明を取るに足らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。
-
福沢諭吉小品集・中津留別の書・第5段方今、我が国に外国の交易始り、外国人の内、あるいは不正の輩ありて、我が国を貧にし我が国民を愚にし、自己の利を営んとする者多し。されば今、我が日本人の皇学・漢学など唱え、古風を慕い新法を悦ばず、世界の人情世体に通ぜずして、自から貧愚に陥るこそ、外国人の得意ならずや。彼の策中に籠絡せらるる者というべし。 この時にあたって外人のはばかるものは、ひとり西洋学のみ。ひろく万国の書を読て世界の事状に通じ、世界の公法をもって世界の公事を談じ、内には智徳を脩て人々の独立自由をたくましゅうし、外には公法を守て一国の独立をかがやかし、はじめて真の大日本国ならずや。これすなわち我が輩の着眼、皇漢洋三学の得失を問わず、ひとり洋学の急務なるを主張するゆえんなり。 願くは我が旧里中津の士民も、今より活眼を開て、まず洋学に従事し、自から労して自から食い、人の自由を妨げずして我が自由を達し、脩徳開智、鄙吝の心を却掃し、家内安全、天下富強の趣意を了解せらるべし。人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん。発足の期、近にあり。怱々筆をとって西洋書中の大意を記し、他日諸君の考案にのこすのみ。 明治三年庚午一一月二七夜、中津留主居町の旧宅敗窓の下に記す 福沢諭吉
-
福沢諭吉小品集・旧藩情・第2段余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望すること切なれども、誰に向てその利害を説くべき路を知らず。故に今この冊子を記して、幸に華族その他有志者の目に触れ、為に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚というべきのみ。 一、維新の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人の目撃するところにして、これを記すはほとんど無益なるに似たれども、光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。故にこの冊子、たとい今日に陳腐なるも、五十年の後には却て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。 明治十年五月三十日 福沢諭吉 記 旧藩情 旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓(旧厩格)供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明に上下両等の間に分界を画すべき事実あり。すなわちその事実とは、
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る