福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第9段
然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法如何と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風を運らさざるべからず。いわんや己れの欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事にして、徹頭徹尾、恕の一義を忘れず、形体こそ二個に分かれたれども、その実は一身同体と心得て、始めて夫婦の人倫を全うするを得べし。故に夫婦家に居るは人間の幸福快楽なりというといえども、本来この夫婦は二個の他人の相合うたるものにして、その心はともかくも、身の有様の同じかるべきにあらず。夫婦おのおのその親戚を異にし、その朋友を異にし、これらに関係する喜憂は一方の知らざる所なれども、既に一身同体とあれば、その喜憂を分かたざるを得ず。また平生の衣食住についても、おのおの好悪する所なきを期すべからずといえども、互いに忍んでその好悪に従わざるべからず。またあるいは一方の病気の如き、固より他の一方に痛痒なけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人五年の中風症、死に至るまで看護怠らずといい、内君七年のレウマチスに、主人は家業の傍らに自ら薬餌を進め、これがために遂に資産をも傾けたるの例なきにあらず。
書き下し
然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法如何と尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風を運らさざるべからず。いわんや己れの欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事にして、徹頭徹尾、恕の一義を忘れず、形体こそ二個に分かれたれども、その実は一身同体と心得て、始めて夫婦の人倫を全うするを得べし。故に夫婦家に居るは人間の幸福快楽なりというといえども、本来この夫婦は二個の他人の相合うたるものにして、その心はともかくも、身の有様の同じかるべきにあらず。夫婦おのおのその親戚を異にし、その朋友を異にし、これらに関係する喜憂は一方の知らざる所なれども、既に一身同体とあれば、その喜憂を分かたざるを得ず。また平生の衣食住についても、おのおの好悪する所なきを期すべからずといえども、互いに忍んでその好悪に従わざるべからず。またあるいは一方の病気の如き、固より他の一方に痛痒なけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人五年の中風症、死に至るまで看護怠らずといい、内君七年のレウマチスに、主人は家業の傍らに自ら薬餌を進め、これがために遂に資産をも傾けたるの例なきにあらず。
現代語訳
それならば、敬愛は夫婦の徳であるが、この徳義を修めて今日の実際に施す方法はどうか。夫婦が利害を共にし、苦楽喜憂を共にするのは当然で、あるいは一方の心身に苦痛が降りかかることがあれば、人力の及ぶ限りその苦痛を分かち合う工夫を巡らさなければならない。まして、自分が望まないことを他の一方に施すなどはなおさらである。決してあってはならないことで、徹頭徹尾、恕の一義を忘れず、体は二つに分かれていても、実は一身同体と心得て、初めて夫婦の人倫を全うすることができる。だから夫婦が家にいるのは人間の幸福快楽だというけれども、本来この夫婦は二人の他人が合わさったものであり、心はともかく、身の有様が同じであるはずがない。夫婦はそれぞれ親戚を異にし、朋友を異にし、これらに関わる喜びや憂いは一方の知らないところだが、すでに一身同体というからには、その喜憂を分かち合わざるをえない。また日々の衣食住についても、それぞれ好き嫌いがないとは期待できないが、互いに忍んでその好き嫌いに従わなければならない。またあるいは一方の病気のようなものは、もとより他の一方に痛みかゆみはないが、あたかもその病苦を自分の身に引き受けるようにして、力の限り看護しなければならない。夫が五年間の中風症で、死に至るまで看護を怠らなかったという例、妻が七年間のリウマチで、主人は家業のかたわら自ら薬を進め、そのために資産さえ傾けたという例がないわけではない。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第8段およそ古今世界に親子不和といい兄弟姉妹相争うというが如き不祥の沙汰少なからずして、当局者の罪に相違はなけれども、一歩を進めて事の原因を尋ぬれば、その父母たる者が夫婦の関係を等閑にしたるにあり。なお進んで吟味を遠くすれば、その父母の父母たる祖父母より以上曽祖玄祖に至るまでも罪を免るべからず。前節にもいえる如く、人の心の不徳は身の病に異ならず、病毒の力能く四、五世に遺伝するものなれば、不徳の力もまた四、五世に伝えて禍せざるを得ず。されば公徳の根本は一家の私徳にありて、その私徳の元素は夫婦の間に胚胎すること明々白々、我輩の敢えて保証する所のものなれば、男女両性の関係は立国の大本、禍福の起源として更に争うべからず。今日吾々日本国民の形体は、伊奘諾・伊奘冊二尊の遺体にして、吾々の依って以て社会を維持する私徳公徳もまた、その起源を求むれば、二尊夫婦の間に行われたる親愛恭敬の遺徳なりと知るべし。 夫婦親愛恭敬の徳は、天下万世百徳の大本にして更に争うべからざるの次第は、前既にその大意を記して、読者においても必ず異議はなかるべし。そもそも我輩がここに敬の字を用いたるは偶然にあらず。男女肉体を以て相接するものなれば、仮令えいかなる夫婦にても一時の親愛なきを得ず。動物たる人類の情において然りといえども、人類をして他の動物の上に位して万物の霊たらしむる所以のものは、この親愛に兼ねて恭敬の誠あるに由るのみ。これを通俗にいえば、夫婦の間、相互いに隔てなくして可愛がるとまでにては未だ禽獣と区別するに足らず。一歩を進め、夫婦互いに丁寧にし大事にするというて、始めて人の人たる所を見るに足るべし。即ち敬の意なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第10段これらの点より見れば、夫婦同室は決して面白きものにあらず。独身なれば、親戚朋友の附合もただ一方にして余計の心配なく、衣食住の物とて自分一人の気に任せて不自由なく、病気も一身の病気にして他人の病を憂うるに及ばざるに、ただ夫婦の約束したるがために、あたかも一生の苦労を二重にしたる姿となり、一人にして二人前の勤めを勤むるの責に当たるは不利益なるが如くなれども、およそ人間世界において損益苦楽は常に相伴うの約束にして、俗にいわゆる丸儲けなるものはなきはずなり。故に夫婦家に居て互いに苦労を共にするは、一方において二重の苦労に似たれども、その苦労の代りには一人の快楽を二人の間に共にして、即ち二重の快楽なれば、つまり損亡とてはなくして苦楽相償い、平均してなお余楽あるものと知るべし。 されば夫婦家に居るは必ずしも常に快楽のみに浴すべきものにあらず、苦楽相平均して幸いに余楽を楽しむものなれども、栄枯無常の人間世界に居れば、不幸にしてただ苦労にのみ苦しむこともあるべき約束なりと覚悟を定めて、さて一夫多妻、一婦多男は、果たして天理に叶うか、果たして人事の要用、臨時の便利にして害なきものかと尋ぬるに、我輩は断じて否と答えざるを得ず。天の人を生ずるや男女同数にして、この人類は元一対の夫婦より繁殖したるものなれば、生々の起原に訴うるも、今の人口の割合に問うも、多妻多男は許すべからず。然らば人事の要用、臨時の便利において如何というに、人間世界の歳月を短きものとし、人生を一代限りのものとし、あたかも今日の世界を挙げて今日の人に玩弄せしめて遺憾なしとすれば、多妻多男の要用便利もあるべし。世事繁多なれば一時夫婦の離れ居ることもあり、また時としては病気災難等の事も少なからず。これらの時に当たっては夫婦一対に限らず、一夫衆婦に接し、一婦衆男に交わるも、木石ならざる人情の要用にして、臨時非常の便利なるべしといえども、これは人生に苦楽相伴うの情態を知らずして、快楽の一方に着眼し、いわゆる丸儲けを取らんとする自利の偏見にして、今の社会を害するのみならず、また後世のために謀りて許すべからざる所のものなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第4段されば人生の道徳は夫婦の間に始まり、夫婦以前道徳なく、夫婦以後始めてその要を感ずることなれば、これを百徳の根本なりと明言して決して争うべからざるものなり。既に夫婦を成してここに子あり、始めて親子・兄弟姉妹の関係を生じ、おのおのその関係について要用の徳義あり。慈といい、孝といい、悌といい、友というが如き、即ちこれにして、これを総称して人生居家の徳義と名づくといえども、その根本は夫婦の徳に由らざるはなし。如何となれば、夫婦既に配偶の大倫を紊りて先ず不徳の家を成すときは、この家に他の徳義の発生すべき道理あらざればなり。近く有形のものについて確かなる証拠を示さんに、両親の身体に病あればその病毒は必ず子孫に遺伝するを常とす、人の普く知る所にして、夫婦の病は家族百病の根本なりといわざるを得ず。有形の病毒にして斯の如くなれば、無形の徳義においてもまた斯の如くなるべきは、誠に睹易き道理にして、これに疑いを容るる者はなかるべし。病身なる父母は健康なる児を生まず、不徳の家には有徳なる子女を見ず。有形無形その道理は一なり。あるいは夫婦不徳の家に孝行の子女を生じ、兄弟姉妹団欒として睦まじきこともあらば、これは不思議の間違いにして、稀に人間世界にあるも、常に然るを冀望すべからざる所のものなり。世間あるいは強いてこれを望む者もあるべしといえども、その迂闊なるは病父母をして健康無事の子を生ましめんとするに異ならず、我輩の知らざる所なり。古人の言に孝は百行の本なりという。孝行は人生の徳義の中にて至極大切なるものにして、我輩も固より重んずる所のものなりといえども、世界開闢生々の順序においても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば、孝徳は第二に起こりたるものにして、これに先だつに夫婦の徳義あるを忘るべからず。故に今仮に古人の言に従って孝を百行の本とするも、その孝徳を発生せしむるの根本は、夫婦の徳心に胚胎するものといわざるを得ず。男女の関係は人生に至大至重の事なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第3段世界開闢の歴史を見るに、初めは独化の一人ありて、後に男女夫婦を生じたりという。我が日本において、国常立尊の如きは独化の神にして、伊奘諾尊、伊奘冊尊は則ち夫婦の神なり。西洋においても、先ずエデンの園に現われたる人はアダムにして、後にイーブなる女性を生じ、夫婦の道始めて行われたるものなり。さてこの独化独生の人が独り天地の間に居るときに当たりては、固より道徳の要あるべからず。あるいは謹んで天に事うるなどのこともあらんなれども、これは神学の言にして、我輩が通俗の意味に用うる道徳は、これを修めんとして修むべからず、これを破らんとして破るべからず、徳もなく不徳もなき有様なれども、後にここに配偶を生じ、男女二人相伴うて同居するに至り、始めて道徳の要用を見出したり。その相伴うや、相共に親愛し、相共に尊敬し、互いに助け、助けられ、二人あたかも一身同体にして、その間に少しも私の意を挟むべからず。即ち男女居を同じうするための要用にして、これを夫婦の徳義という。もしも然らずして、相互いに疎んじ相互いに怨んでその情を痛ましむるが如きありては、配偶の大倫を全うすること能わずして、これをその人の不徳と名づけざるを得ず。我輩窃かに案ずるに、かの伊奘諾尊、伊奘冊尊、またはアダム、イーブの如きも、必ずこの夫婦の徳義を修めて幸福円満なりしことならんと信ずるのみ。
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『家道訓』巻之一・総論上一凡、家ををさむるに、まづ父子兄弟夫婦の三親をあつくすべし。古語に、父子したしみ兄弟和し、夫婦正しきは家の肥えたるなりといへり。もし三親和せずんば、富めりといへども家のやせたるなり。一凡家にありて家人にまじはるには、善を行ひて悪をいましむる、是を要とす。善を行はざれば人の道たたず。善を行ふには愛敬を本とすべし。愛とは、人をあはれみておろそかにせざるなり。敬とは、人をうやまひてあなどらざるなり。此の二は、凡人倫にまじはりて、善を行ふ心法なり。善をするは愛敬の外になし。父母を愛敬するを本として、兄弟夫婦親戚下人に対するも皆然るべし。各其人の品によりて愛敬すべし。うとけれどもおろそかにすべからず。是愛なり。賤しけれども侮るべからず。是敬なり。
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『翁問答』上卷之本夫は和義を以て、妻を倡道す、和は親しみ和合する徳なり、義は道理に従て裁判し、非道を調へ棄る徳なり、大抵夫婦の間は、愛欲の私しに溺れて、義理の裁判無く、妻にまかれて、親子兄弟骨肉の親をもいひ隔てられて、怨を結ぶ事甚しければ、家を破り国を失ふ者、古来其数を知らず、又間々夫婦の交り背きそむきにして、非法見苦しきも有り、是皆人心の迷ひなり、夫婦の契人間の結び合ふたる如くなれ共、根本は形を受る初より、気合の縁天の定る処にして親の結べる所に非らず、其上祭祀の助け、子孫相続して本始なれば、親しみ和合す可き事勿論なり、然れ共義理の裁判無れば、愛欲の私しに溺れ、家道乱れ別道の常を失ふ故に、和と義との二つを合せて夫の妻を倡ふ道とす
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