福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第5段
夫婦家に居て親子・兄弟姉妹の関係を生じ、その関係について徳義の要用を感じ、家族おのおのこれを修めて一家の幸福いよいよ円満いよいよ楽し。即ち居家の道徳なれども、人間生々の約束は一家族に止まらず、子々孫々次第に繁殖すれば、その起源は一対の夫婦に出るといえども、幾百千年を経るの間には遂に一国一社会を成すに至るべし。既に社会を成すときは、朋友の関係あり、老少の関係あり、また社会の群集を始末するには政府なかるべからざるが故に、政府と人民との関係を生じ、その仕組みには君臣の分を定むるもあり、あるいは君臣の名なきもあれども、つまり治むる者と治めらるる者との関係にして、その意味は大同小異のみ。斯く広き社会の中に居て、一人と一人との間、また一種族と一種族との間に様々の関係あることなれば、その関係について、それぞれ守る所の徳義なかるべからず。即ち朋友に信といい、長幼に序といい、君臣または治者・被治者の間に義というが如く、大切なる箇条あり。これを人生戸外の道徳という。即ち家の外の道徳という義にして、家族に縁なく、広く社会の人に交わるに要用なるものにして、かの居家の道徳に比すれば、その働くところを異にするが故に、その重んずる所もまた自ずから相異ならざるを得ず。 例えば私有の権というが如きは、戸外において最も大切なる箇条にして、これを犯すものは不徳のみならず、冷淡無情なる法律においても深く咎むる所なれども、一歩を引いて家の内に入れば甚だ寛かにして、夫婦親子の間に私有を争うものも少なし。家の内には情を重んじて家族相互いに優しきを貴ぶのみにして、時として過誤失策もあり、または礼を欠くことあるもこれを咎めずといえども、戸外にあっては過誤も容易に許されず、まして無礼の如きは、他の栄誉を害するの不徳として、世間の譏りを免るべからず。これを要するに、戸外の徳は道理を主とし、家内の徳は人情を主とするものなりというて可ならん。即ち公徳私徳の名ある所以にして、その分界明白なれば、これを教うるの法においてもまた前後本末の区別なかるべからざるなり。
書き下し
夫婦家に居て親子・兄弟姉妹の関係を生じ、その関係について徳義の要用を感じ、家族おのおのこれを修めて一家の幸福いよいよ円満いよいよ楽し。即ち居家の道徳なれども、人間生々の約束は一家族に止まらず、子々孫々次第に繁殖すれば、その起源は一対の夫婦に出るといえども、幾百千年を経るの間には遂に一国一社会を成すに至るべし。既に社会を成すときは、朋友の関係あり、老少の関係あり、また社会の群集を始末するには政府なかるべからざるが故に、政府と人民との関係を生じ、その仕組みには君臣の分を定むるもあり、あるいは君臣の名なきもあれども、つまり治むる者と治めらるる者との関係にして、その意味は大同小異のみ。斯く広き社会の中に居て、一人と一人との間、また一種族と一種族との間に様々の関係あることなれば、その関係について、それぞれ守る所の徳義なかるべからず。即ち朋友に信といい、長幼に序といい、君臣または治者・被治者の間に義というが如く、大切なる箇条あり。これを人生戸外の道徳という。即ち家の外の道徳という義にして、家族に縁なく、広く社会の人に交わるに要用なるものにして、かの居家の道徳に比すれば、その働くところを異にするが故に、その重んずる所もまた自ずから相異ならざるを得ず。 例えば私有の権というが如きは、戸外において最も大切なる箇条にして、これを犯すものは不徳のみならず、冷淡無情なる法律においても深く咎むる所なれども、一歩を引いて家の内に入れば甚だ寛かにして、夫婦親子の間に私有を争うものも少なし。家の内には情を重んじて家族相互いに優しきを貴ぶのみにして、時として過誤失策もあり、または礼を欠くことあるもこれを咎めずといえども、戸外にあっては過誤も容易に許されず、まして無礼の如きは、他の栄誉を害するの不徳として、世間の譏りを免るべからず。これを要するに、戸外の徳は道理を主とし、家内の徳は人情を主とするものなりというて可ならん。即ち公徳私徳の名ある所以にして、その分界明白なれば、これを教うるの法においてもまた前後本末の区別なかるべからざるなり。
現代語訳
夫婦が家にいて親子・兄弟姉妹の関係が生じ、その関係について徳義の必要を感じ、家族がそれぞれこれを修めて一家の幸福がいよいよ円満に、いよいよ楽しくなる。これが家庭の道徳であるが、人間の生々の約束は一家族にとどまらず、子々孫々と次第に繁殖すれば、その起源は一対の夫婦に出るとしても、数百年数千年を経る間には、ついに一国一社会を成すに至る。すでに社会を成すときは、朋友の関係があり、老少の関係があり、また社会の群衆を取りまとめるには政府がなくてはならないので、政府と人民との関係が生じ、その仕組みには君臣の分を定めるものもあり、君臣の名がないものもあるが、つまり治める者と治められる者との関係で、その意味は大同小異である。このように広い社会の中にいて、一人と一人の間、また一種族と一種族の間に様々な関係があるのだから、その関係についてそれぞれ守るべき徳義がなければならない。すなわち朋友には信といい、長幼には序といい、君臣または治者・被治者の間には義というように、大切な箇条がある。これを人生戸外の道徳という。つまり家の外の道徳という意味で、家族に縁なく、広く社会の人と交わるのに必要なものであり、あの家庭の道徳に比べれば、その働く所が異なるので、その重んじる所もまたおのずから異ならざるをえない。 たとえば私有の権利というようなものは、戸外においてもっとも大切な箇条で、これを犯す者は不徳であるばかりか、冷淡無情な法律でも深くとがめるところだが、一歩引いて家の内に入ればきわめて寛大で、夫婦親子の間で私有を争う者も少ない。家の内では情を重んじて家族がたがいに優しいことを貴ぶだけで、時には過ちや失敗があり、または礼を欠くことがあってもこれをとがめないが、戸外では過ちも容易には許されず、まして無礼のようなものは、他人の名誉を害する不徳として、世間の非難を免れない。これを要するに、戸外の徳は道理を主とし、家内の徳は人情を主とするものだと言ってよいだろう。これが公徳・私徳の名がある理由であり、その区別が明白であれば、これを教える方法においてもまた前後・本末の区別がなくてはならない。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第7段然るに我輩が古今和漢の道徳論者に向かって不平なるは、その教えの主義として第一に私徳公徳の区別を立てざるにあり。第二には、仮令え不言の間に自ずから区別する所ありとするも、その教えの方法に前後本末を明言せずして、時としては私徳を説き、また時としては公徳を勧め、いずれか前、いずれか後なるを明らかにせざるがために、後進の学者をして方向を誤らしむるにあり。然かのみならず、その教えの主義たるや、ややもすれば政治論に混同して重きを政治に置き、これに関する徳義は固より公徳なるが故に、かえって私徳を後にして公徳を先にするものさえなきにあらず。例えば忠義正直というが如き、政治上の美徳にして、甚だ大切なるものなれども、人に教うるに先ずこの公徳を以てして、居家の私徳を等閑にするにおいては、あたかも根本の浅き公徳にして、我輩は時にその動揺なきを保証する能わざるものなり。 そもそも一国の社会を維持して繁栄幸福を求めんとするには、その社会の公衆に公徳なかるべからず。その公徳をして堅固ならしめんとするには、根本を私徳の発育に取らざるべからず。即ち国の本は家にあり。良家の集まる者は良国にして、国力の由って以て発生する源は、単に家にあって存すること、更に疑うべきにあらず。然り而してその家の私徳なるものは、親子・兄弟姉妹、団欒として相親しみ、父母は慈愛厚くして子は孝心深く、兄弟姉妹相助けて以て父母の心身の労を軽くする等の箇条にして、能くこの私徳を発達せしむるその原因は、家族の起源たる夫婦の間に薫ずる親愛恭敬の美にあらざるはなし。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第6段例えば支那流に道徳の文字を並べ、親愛、恭敬、孝悌、忠信、礼義、廉潔、正直など記して、その公私の分界を吟味すれば、親愛、恭敬、孝悌は、私徳の誠なるものにして、忠信、礼義、廉潔、正直は、公徳の部に属すべし。けだし忠信以下の箇条も固より家内に行わるるといえども、あたかも親愛、恭敬、孝悌の空気の中に包羅せられて特に形を現わすを得ず。その行わるるや不規則なるが如くにして、ただ精神を誠の一点に存し、以て幸福円満欠くることなきを得るのみ。然るに戸外の公徳は、ややもすれば道理に入ること多くして、冷淡無情に陥らんとするの弊なきにあらず。最も憂うべき所にして、ある人の説に十全の正直は十全の親愛と両立すべからずといいしも、この辺の事情を極言したるものならん。古今の道徳論者が世人の薄徳を嘆き、未だ誠に至らずなど言うは、その言不分明にして徳の公私を分かたずといえども、意のある所を窺えば、公徳の働きに情を含むこと未だ足らずして、私徳の円満なるが如くならずというの意味を見るべし。されば今、公徳の美を求めんとならば、先ず私徳を修めて人情を厚うし、誠意誠心を発達せしめ、以て公徳の根本を固くするの工風こそ最第一の肝要なれ。即ち家に居り家族相互いに親愛恭敬して人生の至情を尽し、一言一行、誠のほかなくしてその習慣を成し、発して戸外の働きに現われて公徳の美を円満ならしむるものなり。古人の言に、忠臣は孝子の門に出ずといいしも、決して偶然にあらず。忠は公徳にして孝は私徳なり、その私、修まるときは、この公、美ならざらんと欲するも得べからざるなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第2段世に道徳論者ありて、日本国に道徳の根本標準を立てんなど喧しく議論して、あるいは儒道に由らんといい、あるいは仏法に従わんといい、あるいは耶蘇教を用いんというものあれば、また一方にはこれを悦ばず、儒仏耶蘇、いずれにてもこれに偏するは不便なり、つまり自愛に溺れず、博愛に流れず、まさにその中道を得たる一種の徳教を作らんというものあり。これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身に切ならずして他に関係するものの如し。一身の私徳を後にして、交際上の公徳を先にするものの如し。即ち家に居るの徳義よりも、世に処するの徳義を専らにするものの如し。この一点において我輩が見る所を異にすると申すその次第は、敢えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第4段されば人生の道徳は夫婦の間に始まり、夫婦以前道徳なく、夫婦以後始めてその要を感ずることなれば、これを百徳の根本なりと明言して決して争うべからざるものなり。既に夫婦を成してここに子あり、始めて親子・兄弟姉妹の関係を生じ、おのおのその関係について要用の徳義あり。慈といい、孝といい、悌といい、友というが如き、即ちこれにして、これを総称して人生居家の徳義と名づくといえども、その根本は夫婦の徳に由らざるはなし。如何となれば、夫婦既に配偶の大倫を紊りて先ず不徳の家を成すときは、この家に他の徳義の発生すべき道理あらざればなり。近く有形のものについて確かなる証拠を示さんに、両親の身体に病あればその病毒は必ず子孫に遺伝するを常とす、人の普く知る所にして、夫婦の病は家族百病の根本なりといわざるを得ず。有形の病毒にして斯の如くなれば、無形の徳義においてもまた斯の如くなるべきは、誠に睹易き道理にして、これに疑いを容るる者はなかるべし。病身なる父母は健康なる児を生まず、不徳の家には有徳なる子女を見ず。有形無形その道理は一なり。あるいは夫婦不徳の家に孝行の子女を生じ、兄弟姉妹団欒として睦まじきこともあらば、これは不思議の間違いにして、稀に人間世界にあるも、常に然るを冀望すべからざる所のものなり。世間あるいは強いてこれを望む者もあるべしといえども、その迂闊なるは病父母をして健康無事の子を生ましめんとするに異ならず、我輩の知らざる所なり。古人の言に孝は百行の本なりという。孝行は人生の徳義の中にて至極大切なるものにして、我輩も固より重んずる所のものなりといえども、世界開闢生々の順序においても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば、孝徳は第二に起こりたるものにして、これに先だつに夫婦の徳義あるを忘るべからず。故に今仮に古人の言に従って孝を百行の本とするも、その孝徳を発生せしむるの根本は、夫婦の徳心に胚胎するものといわざるを得ず。男女の関係は人生に至大至重の事なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第8段およそ古今世界に親子不和といい兄弟姉妹相争うというが如き不祥の沙汰少なからずして、当局者の罪に相違はなけれども、一歩を進めて事の原因を尋ぬれば、その父母たる者が夫婦の関係を等閑にしたるにあり。なお進んで吟味を遠くすれば、その父母の父母たる祖父母より以上曽祖玄祖に至るまでも罪を免るべからず。前節にもいえる如く、人の心の不徳は身の病に異ならず、病毒の力能く四、五世に遺伝するものなれば、不徳の力もまた四、五世に伝えて禍せざるを得ず。されば公徳の根本は一家の私徳にありて、その私徳の元素は夫婦の間に胚胎すること明々白々、我輩の敢えて保証する所のものなれば、男女両性の関係は立国の大本、禍福の起源として更に争うべからず。今日吾々日本国民の形体は、伊奘諾・伊奘冊二尊の遺体にして、吾々の依って以て社会を維持する私徳公徳もまた、その起源を求むれば、二尊夫婦の間に行われたる親愛恭敬の遺徳なりと知るべし。 夫婦親愛恭敬の徳は、天下万世百徳の大本にして更に争うべからざるの次第は、前既にその大意を記して、読者においても必ず異議はなかるべし。そもそも我輩がここに敬の字を用いたるは偶然にあらず。男女肉体を以て相接するものなれば、仮令えいかなる夫婦にても一時の親愛なきを得ず。動物たる人類の情において然りといえども、人類をして他の動物の上に位して万物の霊たらしむる所以のものは、この親愛に兼ねて恭敬の誠あるに由るのみ。これを通俗にいえば、夫婦の間、相互いに隔てなくして可愛がるとまでにては未だ禽獣と区別するに足らず。一歩を進め、夫婦互いに丁寧にし大事にするというて、始めて人の人たる所を見るに足るべし。即ち敬の意なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第19段人間処世の権理に公私の区別ありて、先ず私権を全うして然る後、公権の談に及ぶべしとの次第は、かつて『時事新報』の紙上にも記したることなるが(去年十月六日より同十二日までの『時事新報』「私権論」)、そもそもこの私権の思想の発生する事情は種々様々なれども、最第一の原因は、本人の自ら信じ自ら重んずるの心にあって存するものと知るべし。即ち我が徳義を円満無欠の位に定め、一身の尊きこと玉璧もただならず、これを犯さるるは、あたかも夜光の璧に瑕瑾を生ずるが如き心地して、片時も注意を怠ることなく、穎敏に自ら衛りて、始めて私権を全うするの場合に至るべし。されば今、私権を保護するは全く法律上の事にして、徳義には縁なきものの如くに見ゆれども、元これを保護せんとするの思想は、円満無欠なる我が身に疵つくるを嫌うの一念より生ずるものなれば、いやしくも内に自ら省みて疚しきものあるにおいては、その思想の発達、決して十分なるを得べからず。如何となれば本人は元来疵持つ身にして、その気既に餒えたるが故に、大節に臨んで屈することなきを得ず。即ち人心の働きの定則として、一方に本心を枉げて他の一方にこれを伸ばすの道理あらざればなり。私徳を修めて身を潔清の位に置くと、私権を張りて節を屈せざると、二者その趣を殊にするが如くなれども、根本の元素は同一にして、私徳私権相関し、徳は権の質なりというべし。試みにこれを歴史に徴するに、義気凜然として威武も屈する能わず富貴も誘う能わず、自ら私権を保護して鉄石の如くなる士人は、その家に居るや必ず優しくして情に厚き人物ならざるはなし。即ち戸外の義士は家内の好主人たるの実を見るべし。いかなる場合にも放蕩無情、家を知らざるの軽薄児が、能く私権のために節を守りて義を全うしたるの例は、我輩の未だ聞かざる所なり。
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