福沢諭吉小品集 / 徳育如何・第13段
新に沐する者は必ず冠を弾し、新に浴する者は必ず衣を振うとは、身を重んずるの謂なり。我が身、金玉なるがゆえに、いやしくも瑕瑾を生ずべからず、汚穢に近接すべからず。この金玉の身をもって、この醜行は犯すべからず。この卑屈には沈むべからず。花柳の美、愛すべし、糟糠の老大、厭うに堪えたりといえども、糟糠の妻を堂より下すは、我が金玉の身に不似合なり。長兄愚にして、我れ富貴なりといえども、弟にして兄を凌辱するは、我が金玉の身によくすべからず。ここに節を屈して権勢に走れば名利を得べしといえども、屈節もって金玉の身を汚すべからず。あたうるに天下の富をもってするも、授くるに将相の位をもってするも、我が金玉、一点の瑕瑾に易うべからず。一心ここにいたれば、天下も小なり、王公も賤し。身外無一物、ただ我が金玉の一身あるのみ。一身すでに独立すれば、眼を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を謀るも自然の順序なれば、自主独立の一義、もって君に仕うべし、もって父母に事うべし、もって夫婦の倫をまっとうし、もって長幼の序を保ち、もって朋友の信を固うし、人生居家の細目より天下の大計にいたるまで、一切の秩序を包羅して洩らすものあるべからず。 ゆえに我が輩においては、今世の教育論者が古来の典経を徳育の用に供せんとするを咎るには非ざれども、その経書の働を自然に任して正に今の公議輿論に適せしめ、その働の達すべき部分にのみ働をたくましゅうせしめんと欲する者なり。すなわち今日の徳教は、輿論にしたがいて自主独立の旨に変ずべき時節なれば、周公孔子の教も、また自主独立論の中に包羅してこれを利用せんと欲するのみ。 今の世態、はたして不遜軽躁に堪えざるか、自主独立の精神に乏しきがゆえなり。論者その人の徳義薄くして、その言論演説、もって人を感動せしむるに足らざるか、夫子自から自主独立の旨を知らざるの罪なり。天下の風潮は、つとに開進の一方に向いて、自主独立の輿論はこれを動かすべからず。すでにその動かすべからざるを知らば、これにしたがうこそ智者の策なれ。けだし、学校の教育をして順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くせんとはこの謂なり。
書き下し
新に沐する者は必ず冠を弾し、新に浴する者は必ず衣を振うとは、身を重んずるの謂なり。我が身、金玉なるがゆえに、いやしくも瑕瑾を生ずべからず、汚穢に近接すべからず。この金玉の身をもって、この醜行は犯すべからず。この卑屈には沈むべからず。花柳の美、愛すべし、糟糠の老大、厭うに堪えたりといえども、糟糠の妻を堂より下すは、我が金玉の身に不似合なり。長兄愚にして、我れ富貴なりといえども、弟にして兄を凌辱するは、我が金玉の身によくすべからず。ここに節を屈して権勢に走れば名利を得べしといえども、屈節もって金玉の身を汚すべからず。あたうるに天下の富をもってするも、授くるに将相の位をもってするも、我が金玉、一点の瑕瑾に易うべからず。一心ここにいたれば、天下も小なり、王公も賤し。身外無一物、ただ我が金玉の一身あるのみ。一身すでに独立すれば、眼を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を謀るも自然の順序なれば、自主独立の一義、もって君に仕うべし、もって父母に事うべし、もって夫婦の倫をまっとうし、もって長幼の序を保ち、もって朋友の信を固うし、人生居家の細目より天下の大計にいたるまで、一切の秩序を包羅して洩らすものあるべからず。 ゆえに我が輩においては、今世の教育論者が古来の典経を徳育の用に供せんとするを咎るには非ざれども、その経書の働を自然に任して正に今の公議輿論に適せしめ、その働の達すべき部分にのみ働をたくましゅうせしめんと欲する者なり。すなわち今日の徳教は、輿論にしたがいて自主独立の旨に変ずべき時節なれば、周公孔子の教も、また自主独立論の中に包羅してこれを利用せんと欲するのみ。 今の世態、はたして不遜軽躁に堪えざるか、自主独立の精神に乏しきがゆえなり。論者その人の徳義薄くして、その言論演説、もって人を感動せしむるに足らざるか、夫子自から自主独立の旨を知らざるの罪なり。天下の風潮は、つとに開進の一方に向いて、自主独立の輿論はこれを動かすべからず。すでにその動かすべからざるを知らば、これにしたがうこそ智者の策なれ。けだし、学校の教育をして順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くせんとはこの謂なり。
現代語訳
新たに髪を洗った者は必ず冠のちりを払い、新たに湯浴みした者は必ず衣を振るうとは、身を重んじることをいう。我が身は金玉であるから、いやしくも傷をつけてはならず、汚れに近づけてはならない。この金玉の身で、この醜い行いは犯してはならない。この卑屈には沈んではならない。遊里の美人は愛すべく、糟糠の老妻は厭わしいといっても、糟糠の妻を堂から下すのは、我が金玉の身にふさわしくない。長兄が愚かで、自分が富貴であっても、弟として兄を辱めるのは、我が金玉の身にとって許せない。ここで節を曲げて権勢に走れば名利を得られるとしても、節を曲げて金玉の身を汚してはならない。天下の富を与えられても、大臣の位を授けられても、我が金玉を、一点の傷とも取り換えてはならない。一心がここに至れば、天下も小さく、王公も卑しい。身の外に一物もなく、ただ我が金玉の一身があるだけである。一身がすでに独立すれば、目を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を図るのも自然の順序であるから、自主独立の一義は、これによって君に仕えるべきであり、父母に仕えるべきであり、夫婦の倫を全うし、長幼の序を保ち、朋友の信を固め、人生の家庭の細目から天下の大計に至るまで、一切の秩序を包み込んで漏らすものはない。 だから我々は、今の世の教育論者が古来の経典を徳育に用いようとするのをとがめるわけではないが、その経書の働きを自然に任せて、まさに今の世論に適合させ、その働きが届くべき部分でのみ力を発揮させようとする者である。つまり今日の徳の教えは、世論に従って自主独立の趣旨に変わるべき時期なのであるから、周公・孔子の教えもまた、自主独立論の中に包み込んで利用しようとするだけである。 今の世の様子が、はたして不遜軽はずみに堪えないのは、自主独立の精神に乏しいからである。論者その人の徳義が薄くて、その言論・演説が人を感動させるに足りないのは、論者自身が自主独立の趣旨を知らない罪である。天下の風潮は早くから開化進歩の一方に向かい、自主独立の世論は動かすことができない。動かせないと知った以上は、これに従うことこそ智者の策である。学校の教育を順に帰させること、流れに従って水を治めるようにするとは、このことをいう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福沢諭吉小品集・徳育如何・第12段我が日本の開国についで政府の革命以来、全国人民の気風は開進の一方に赴き、その進行の勢力はこれを留めて駐むべからず。すなわち公議輿論の一変したるものなれば、この際にあたりて徳教の働ももとより消滅するに非ずといえども、おのずから輿論に適するがために、大いにその装を改めざるをえざるの時節なり。たとえば在昔は、君臣の団結、国中三百所に相分れたる者が、今は一団の君臣となりたれば、忠義の風も少しく趣を変じて、古風の忠は今日に適せず。 在昔は三百藩外に国あるを知らずして、ただ藩と藩との間に藩権を争いしものも、今日は全国あたかも一大藩の姿となりて、在昔、藩権の精神は、面目を改めて国権論に変ぜざるをえず。在昔は、社会の秩序、すべて相依るの風にして、君臣、父子、夫婦、長幼、たがいに相依り相依られ、たがいに相敬愛し相敬愛せられ、両者相対して然る後に教を立てたることなれども、今日自主独立の教においては、まず我が一身を独立せしめ、我が一身を重んじて、自からその身を金玉視し、もって他の関係を維持して人事の秩序を保つべし。
-
福沢諭吉小品集・中津留別の書・第1段中津留別の書 人は万物の霊なりとは、ただ耳目鼻口手足をそなえ言語・眠食するをいうにあらず。その実は、天道にしたがって徳を脩め、人の人たる知識・聞見を博くし、物に接し人に交わり、我が一身の独立をはかり、我が一家の活計を立ててこそ、はじめて万物の霊というべきなり。 古来、支那・日本人のあまり心付かざることなれども、人間の天性に自主・自由という道あり。ひと口に自由といえば我儘のように聞こゆれども、決して然らず。自由とは、他人の妨をなさずして我が心のままに事を行うの義なり。父子・君臣・夫婦・朋友、たがいに相妨げずして、おのおのその持前の心を自由自在に行われしめ、我が心をもって他人の身体を制せず、おのおのその一身の独立をなさしむるときは、人の天然持前の性は正しきゆえ、悪しき方へは赴かざるものなり。 もし心得ちがいの者ありて自由の分限を越え、他人を害して自から利せんとする者あれば、すなわち人間の仲間に害ある人なるゆえ、天の罪するところ、人の許さざるところ、貴賤長幼の差別なく、これを軽蔑して可なり、これを罰して差支なし。右の如く、人の自由独立は大切なるものにて、この一義を誤るときは、徳も脩むべからず、智も開くべからず、家も治らず、国も立たず、天下の独立も望むべからず。一身独立して一家独立し、一家独立して一国独立し、一国独立して天下も独立すべし。士農工商、相互にその自由独立を妨ぐべからず。 人倫の大本は夫婦なり。夫婦ありて後に、親子あり、兄弟姉妹あり。天の人を生ずるや、開闢の始、一男一女なるべし。数千万年の久しきを経るもその割合は同じからざるをえず。また男といい女といい、ひとしく天地間の一人にて軽重の別あるべき理なし。
-
福沢諭吉小品集・修身要領・第1段文明日新の修身処世法は、如何なる主義に依り如何なる方向に進む可きやとは、今の青年学生の大に惑ふ所にして、先輩に対して屡質問を起すものあり。福沢先生これに答ふる為めにとて、生等に嘱して文案を草せしむ。即ち先生平素の言行に基き、其大要を述べて、先生の閲覧を乞ひ、之を修身要領と名け、学生に示すこと左の如し。 明治三十三年二月紀元節 慶応義塾社中某々誌 凡そ日本国に生々する臣民は、男女老少を問はず、万世一系の帝室を奉戴して、其恩徳を仰がざるものある可らず。此一事は、満天下何人も疑を容れざる所なり。而して今日の男女が今日の社会に処する道を如何す可きやと云ふに、古来道徳の教、一にして足らずと雖も、徳教は人文の進歩と共に変化するの約束にして、日新文明の社会には自から其社会に適するの教なきを得ず。即ち修身処世の法を新にするの必要ある所以なり。 第一条 人は人たるの品位を進め、智徳を研き、ます/\其光輝を発揚するを以て、本分と為さざる可らず。吾党の男女は、独立自尊の主義を以て修身処世の要領と為し、之を服膺して、人たるの本分を全うす可きものなり。 第二条 心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ。 第三条 自から労して自から食ふは、人生独立の本源なり。独立自尊の人は自労自活の人たらざる可らず。 第四条 身体を大切にし健康を保つは、人間生々の道に欠く可らざるの要務なり。常に心身を快活にして、苟めにも健康を害するの不養生を戒む可し。 第五条 天寿を全うするは人の本分を尽すものなり。原因事情の如何を問はず、自から生命を害するは、独立自尊の旨に反する背理卑怯の行為にして、最も賤む可き所なり。 第六条 敢為活溌堅忍不屈の精神を以てするに非ざれば、独立自尊の主義を実にするを得ず。人は進取確守の勇気を欠く可らず。 第七条 独立自尊の人は、一身の進退方向を他に依頼せずして、自から思慮判断するの智力を具へざる可らず。 第八条 男尊女卑は野蛮の陋習なり。文明の男女は同等同位、互に相敬愛して各その独立自尊を全からしむ可し。
-
福沢諭吉小品集・徳育如何・第10段我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。 たとえば支那と日本の習慣の殊なるもの多し。就中、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人の出処を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉の宣王に用いられずして梁の恵王を干すも、君に仕うること容易なるものなり。遽伯玉の如き、「邦有レ道則仕、邦無レ道則可二巻而懐一レ之」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵ただならざるを見るべし。
-
『学問のすゝめ』三編・一身独立して一国独立すること・独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず前条に言えるごとく、国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは、一国独立の権義を伸ぶること能わず。その次第三ヵ条あり。第一条、独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。独立とは、自分にて自分の身を支配し、他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。人々この独立の心なくして、ただ他人の力によりすがらんとのみせば、全国の人はみな、よりすがる人のみにて、これを引き受くる者はなかるべし。これを譬えば盲人の行列に手引きなきがごとし、はなはだ不都合ならずや。或る人いわく、「民はこれによらしむべし、これを知らしむべからず。世の中は目くら千人目あき千人なれば、智者上にありて諸民を支配し、上の意に従わしめて可なり」と。この議論は孔子様の流儀なれども、その実は大いに非なり。一国中に人を支配するほどの才徳を備うる者は、千人のうち一人に過ぎず。
-
『論語と算盤』人格と修養・誤解され易き元気この『至大至剛、直きをもって養う』という言葉が甚だ面白い。世間ではよく元気がないとか、元気を出したとか言う。ことによると、大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気がよいと言い、黙っていると元気が悪いと言うが、しかし「ポリス」に捕まって恐れ入るというような元気は、決して誇るべきもので無い。人と争って自分が間違っておっても強情を張り通す、これが元気がよいと思ったら大間違いである。それはすなわち元気を誤解したのである。また気位が高いということも元気であろう。福沢先生のしきりに唱えておった独立自尊、この自尊なども或る場合には元気とも言えよう。自ら助け、自ら守り、自ら治め、自ら活きる、これらと同様な自尊ならばよい。しかし自治だの自活だのは、相当な働きがあるからよいが、自尊ということは誤解すると倨傲になる。あるいは不都合になる。すべて悪徳になって、ちょっと道を通りかかっても、こっちは自尊だからおれは逃げないと言って、自動車などに突き当たってはとんだ間違いが起こる。かかるものは元気ではなかろうと思う。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る