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不動智神妙録 / 求放心と心要放

不見放心と申すは、孟子が申したるにて候、離れたる心を尋ね求めて我身へ返せと申す心にて候、縱へば犬猫鷄など放れて餘所へ行けば、尋ね求めて我家に返す如くに心は身の主なるを、惡敷道へ行く心が逃げるを何とて求めて返さぬぞと也、尤も斯くあるべき義なり、然るに又邵康節と云ひしは心要放と申し候、はらりと替り申し候、斯く申したる心持は、心を執らへつめて置いては勞れ猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止らず染まぬやうに能く使ひなして、捨置いて何所へなりとも追放せと云ふ義なり、

新字:不見放心と申すは、孟子が申したるにて候、離れたる心を尋ね求めて我身へ返せと申す心にて候、縦へば犬猫鶏など放れて余所へ行けば、尋ね求めて我家に返す如くに心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを何とて求めて返さぬぞと也、尤も斯くあるべき義なり、然るに又邵康節と云ひしは心要放と申し候、はらりと替り申し候、斯く申したる心持は、心を執らへつめて置いては労れ猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止らず染まぬやうに能く使ひなして、捨置いて何所へなりとも追放せと云ふ義なり、

書き下し

不見放心と申すは、孟子が申したるにて候、離れたる心を尋ね求めて我身へ返せと申す心にて候、縦へば犬猫鶏など放れて余所へ行けば、尋ね求めて我家に返す如くに心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを何とて求めて返さぬぞと也、尤も斯くあるべき義なり、然るに又邵康節と云ひしは心要放と申し候、はらりと替り申し候、斯く申したる心持は、心を執らへつめて置いては労れ猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止らず染まぬやうに能く使ひなして、捨置いて何所へなりとも追放せと云ふ義なり、

現代語訳

放心を求めよというのは、孟子が言ったことで、離れていった心を尋ね求めて自分の身に返せ、という意味です。たとえば、犬や猫や鶏などが離れてよそへ行けば、尋ね求めて自分の家に返すように、心は身の主であるのに、悪い道へ行って心が逃げるのを、どうして求めて返さないのか、ということです。もっともなことです。ところが、邵康節という人は、心は放つことを要す、と言いました。すっかり逆に変わってしまいます。こう言った心持ちは、心を捕らえて詰めておいては、疲れて猫のように身が働けないので、物に心がとどまらず、染まらないようによく使いこなして、捨て置いて、どこへなりとも放してやれ、という意味です。

解説

孟子は、放心、つまり散ってしまった心を求めて取り戻せ、と説いた。一方、宋の邵康節は、心は放つことが大切だ、と正反対のことを言った。沢庵はこの二つを並べ、矛盾ではなく段階の違いとして読み解いていく。底本は孟子の句を不見放心と作るが、証人三点も同じで、ここでは孟子の求放心の意として訳した。心を集めるべき時と、放つべき時がある。正反対に見える教えを、場面や段階に応じて使い分ける知恵を示している。

この章句が説くこと

求放心孟子邵康節心要放段階矛盾

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