不動智神妙録 / 本心妄心
本心妄心と申す事の候、本心と申すは一所に留らず、全身全體に延び廣ごりたる心にて候、妄心は何ぞ思ひつめて一所に固まり候心にて、本心が一所に固まり集りて妄心と申すものに成り申し候、本心は失ひ候と所々の用か缺ける程に、失はぬ樣にするが本心なり、
新字:本心妄心と申す事の候、本心と申すは一所に留らず、全身全体に延び広ごりたる心にて候、妄心は何ぞ思ひつめて一所に固まり候心にて、本心が一所に固まり集りて妄心と申すものに成り申し候、本心は失ひ候と所々の用か欠ける程に、失はぬ様にするが本心なり、
書き下し
本心妄心と申す事の候、本心と申すは一所に留らず、全身全体に延び広ごりたる心にて候、妄心は何ぞ思ひつめて一所に固まり候心にて、本心が一所に固まり集りて妄心と申すものに成り申し候、本心は失ひ候と所々の用か欠ける程に、失はぬ様にするが本心なり、
現代語訳
本心と妄心ということがあります。本心というのは、一か所にとどまらず、全身全体に伸び広がった心のことです。妄心とは、何かを思いつめて一か所に固まった心のことで、本心が一か所に固まり集まって、妄心というものになってしまうのです。本心を失うと、所々の働きが欠けるので、失わないようにするのが本心なのです。
解説
本心と妄心の違いを、心が広がっているか固まっているかで説明する。本心は特別な清らかな心ではなく、全身にくまなく広がった自然な心のことで、それが何かを思いつめて一か所に固まったときに妄心になる。つまり妄心は本心とは別物ではなく、本心が固まった姿にすぎない。この見方に立てば、迷いを消そうとするより、固まった心をほぐすことが大切だと分かる。思いつめた状態から抜け出す手がかりを与える段である。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
本心妄心思いつめとらわれ心の在り方沢庵
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『兵法家伝書』活人劔「眞妄の哥(本心と妄心)」「さる哥に 妄「心こそ 妄心とてあしき心也、我本心をまよはするなり 本「心まよわす 本心なり此心を妄心がまよはす也 妄「心なれ 妄心をさして、心なれと云也、心をまよはす心也とさしていふ也、妄心なり 「心に 妄心也此妄心にと云也 「心 本心也、心殿とよびかけて本心に妄心に心ゆるすなと也 「心ゆるすな 本心なり妄心に本心をゆるすなと云なり 右の哥眞妄をいふ也、心に本心・妄心とて二ッあり、本心を得て本心の様になせば、一切の事すぐ也、此本心妄心におほわれて、まがりけがれぬれば、一切のしわざ、まがりけがれぬる也、本心妄心とて黒白なる物二ッならびて、各々にあるべきにあらず、本心と云は、本來の面目父母未生以前よりそなわりて、かたちなければ、生ずると云事なし、滅する事なし、形こそは父母もうみなせ、心はかたちなければ、父母の生なせるとも云がたし、人と生るれば、そなわりて此身にあり、禪には此心を傳へたる宗旨也と承る所也、又相似の禪とて、似たる事をいひて、眞の道にあらぬ人多し、禪者とて、一圖にあらぬと也、
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