不動智神妙録 / 敬の字
敬の字をは主一無適と致す程も、心を一所に定めて餘所へ心をやらず、後に拔いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候、殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし、佛法にも敬の字の心有り、敬白鐘を鳴らすとて鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す、先つ佛と唱へ上る此敬白の心、主一無適、一心不亂、同義にて候、
新字:敬の字をは主一無適と致す程も、心を一所に定めて余所へ心をやらず、後に抜いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候、殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし、仏法にも敬の字の心有り、敬白鐘を鳴らすとて鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す、先つ仏と唱へ上る此敬白の心、主一無適、一心不乱、同義にて候、
書き下し
敬の字をは主一無適と致す程も、心を一所に定めて余所へ心をやらず、後に抜いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候、殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし、仏法にも敬の字の心有り、敬白鐘を鳴らすとて鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す、先つ仏と唱へ上る此敬白の心、主一無適、一心不乱、同義にて候、
現代語訳
敬の字を主一無適と説くのも、心を一か所に定めてよそへ心をやらず、後に刀を抜いて切るとしても、切る方へ心をやらないことが肝要なのです。とりわけ主君などからお言葉を承るときは、敬の字の心が眼目であるべきです。仏法にも敬の字の心があります。敬白の鐘を鳴らすといって、鐘を三つ鳴らして手を合わせて敬白し、まず仏と唱え上げる、この敬白の心は、主一無適、一心不乱と同じ意味です。
解説
朱子学で重んじられた敬を、心を一つに集めてよそへ散らさない主一無適として説明する。主君の言葉を承るときの心得としては、これが大切だと認めている。仏法の敬白や一心不乱も同じ心だ、と宗派を越えて共通点を示す。大切な場面で心を一つに集めることの価値を、沢庵は正面から認めているのである。ただしこの段は、次の段で、それが最上の境地ではないと論じるための前置きにもなっている。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
敬主一無適一心不乱朱子学集中敬白
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『大和俗訓』巻之三・心術上一敬はつつしむと訓ず。つつしむとは、心に戒めおそるるを云ふ。和語の意はつつむなり。しはやすめ字なり。内につつんで、みだりに外に出さざるなり。敬めば本心をたもちて失はず、行ひなす事理にかなひてあやまりなし。ここを以て、敬は一心のまもり、万善の根本なり。故に敬めば身修り、敬まざれば乱る。万のこと、敬まざることなかれ。万善皆つつしみによつて行はれ、万悪皆不敬よりおこる。故に五常の徳是によつて立ち、五倫の道是によつて行はる。ここを以て、聖学は敬を以て要とす。故に聖学の始終、皆敬を以て宗とす。古来聖賢の心法、皆敬の一字を要とす。学者の尤つとむべき所なり。又よくつつしめば福あり。つつしまざれば禍あり。白楽天も、禍と福とは慎むと慎まざるとに在りといへり。身のわざはひは、皆つつしまざるによれり。故につつしみは禍にかつといへり。
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