不動智神妙録 / 応無所住而生其心
花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じなから、其所に止らぬを詮と致し候、慈圓の歌に「柴の戶に匂はん花もさもあらばあれなかめにけりな恨めしの世や」。花は無心に匂ひぬるを我は心を花にとゞめてなかめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也、見るとも聞くとも一所に心を止めぬを至極とする事にて候、
新字:花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じなから、其所に止らぬを詮と致し候、慈円の歌に「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれなかめにけりな恨めしの世や」。花は無心に匂ひぬるを我は心を花にとゞめてなかめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也、見るとも聞くとも一所に心を止めぬを至極とする事にて候、
書き下し
花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じなから、其所に止らぬを詮と致し候、慈円の歌に「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれなかめにけりな恨めしの世や」。花は無心に匂ひぬるを我は心を花にとゞめてなかめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也、見るとも聞くとも一所に心を止めぬを至極とする事にて候、
現代語訳
花や紅葉を見て、花や紅葉を見る心は生じながら、そこにとどまらないのを要といたします。慈円の歌に、柴の戸に匂はん花もさもあらばあれながめにけりな恨めしの世や、とあります。花は無心に咲き匂っているのに、自分は心を花にとどめて眺めてしまったことよ、と、自分の身がこれに染まってしまった心が恨めしい、というのです。見るにしても聞くにしても、一か所に心をとどめないのを至極とするのです。
解説
美しいものを見て心が動くのは自然なことで、沢庵はそれを否定しない。見る心は生じながら、そこにとどまらないことが要だという。引かれている慈円の歌は、花は無心に咲いているのに、自分はその花に心をとどめて見入ってしまった、と自らの執着を嘆くものである。感動しないのではなく、感動した後に引きずらない。成功の余韻にいつまでも浸らず、次へ向かう心の在り方としても読むことができる。
この章句が説くこと
慈円和歌花余韻執着無心
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