不動智神妙録 / 石火之機
早きにも心の止まらぬ所を詮に申し候、心が止まれバ我心を人にとられ申し候、早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心に又心を奪はれ候、西行の歌に「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に心止めなと思ふはかりそ」と申す歌は、江口の遊女の讀みし歌なり、歌を我と心得られ候て可然候はんか、心止めなど思ふはかりぞ心得所と可存候、
新字:早きにも心の止まらぬ所を詮に申し候、心が止まれバ我心を人にとられ申し候、早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心に又心を奪はれ候、西行の歌に「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に心止めなと思ふはかりそ」と申す歌は、江口の遊女の読みし歌なり、歌を我と心得られ候て可然候はんか、心止めなど思ふはかりぞ心得所と可存候、
書き下し
早きにも心の止まらぬ所を詮に申し候、心が止まれバ我心を人にとられ申し候、早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心に又心を奪はれ候、西行の歌に「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に心止めなと思ふはかりそ」と申す歌は、江口の遊女の読みし歌なり、歌を我と心得られ候て可然候はんか、心止めなど思ふはかりぞ心得所と可存候、
現代語訳
速さの中にも、心がとどまらないところを要点として申しているのです。心がとどまれば、自分の心を人に取られてしまいます。速くしようと思い構えて速くすれば、思い構える心にまた心を奪われます。西行の歌に、世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心止めなと思ふばかりぞ、という歌は、江口の遊女が詠んだ歌です。この歌を自分のこととして心得られるとよいでしょう。心とどめるな、と思うばかりだ、というところを、心得どころと思ってください。
解説
速くしようと身構えると、その身構える心にとらわれる。これは、とどまるなと思う心さえとらわれになりうる、という禅の深い洞察である。引かれている歌は、西行が江口の宿を借りようとして断られたときに、遊女妙が返したとされる歌で、世を捨てた人なら仮の宿に心をとどめないでと思うだけです、という意味だ。沢庵は歌を西行の作としているが、遊女の歌だと言い直している。執着を捨てよという言葉すら握りしめない軽やかさを学ぶ段である。
この章句が説くこと
西行江口和歌執着身構え軽やかさ
関連する章句
-
『不動智神妙録』石火之機石火之機と申す事の候、是れも前の心持にて候、石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまゝ出る火なれば間も透間もなき事にて候、是れも心の止るべき間のなき事を申し候、早き事とばかり心得候へば悪敷候、心を物に止め間敷と云ふが詮にて候。
-
『不動智神妙録』有心の心 無心の心是れ心に物ある故なり、あるとは思ふ事があるなり、此有る物を去りぬれば、心無心にして唯用の時ばかり働きて其用に当る、此の心にある物を去らんと思ふ心が又心中の有る物になる、思はざれば独り去りて自ら無心となるなり、常にかくすれば何時となく後は独り其位へ行くなり、急にやらんとすれば行かぬものなり、古歌に「思はしと思ふも物を思ふなり思はじとだに思はしやきみ」。
-
『不動智神妙録』心の置所心の置所 心を何処に置かうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるゝなり、敵の太刀に心を置けは、敵の太刀に心を取らるゝなり、敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるゝなり、我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるゝなり、われ切られじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるゝなり、人の構に心を置けば、人の構に心を取らるゝなり、兎角心の置所はないと言ふ、
-
『不動智神妙録』応無所住而生其心花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じなから、其所に止らぬを詮と致し候、慈円の歌に「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれなかめにけりな恨めしの世や」。花は無心に匂ひぬるを我は心を花にとゞめてなかめけるよと、身の是れにそみたる心が恨めしと也、見るとも聞くとも一所に心を止めぬを至極とする事にて候、
-
『不動智神妙録』間不容髪禅の問答には此心ある事にて候、仏法にては此の止りて物に心の残ることを嫌ひ申し候、故に止るを煩悩と申し候、たてきつたる早川へも玉を流す様に乗つてドツト流れて少しも止る心なきを尊ひ候。
-
『不動智神妙録』石火之機石火の機と申すもピカリとする稲光のはやきを申し候、例へば右衛門とよびかくるとアツと答ふるを不動智と申し候、右衛門と呼びかけられて何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か杯いふ心は住地煩悩にて候、止りて物に動かされ迷はさるゝ心を所住煩悩とて凡夫にて候、又右衛門と呼ばれてオツと答ふるは諸仏智なり、仏と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候、此の心の如くなるを神とも仏とも申し候、