不動智神妙録 / 石火之機
石火の機と申すもピカリとする稻光のはやきを申し候、例へば右衛門とよびかくるとアツと答ふるを不動智と申し候、右衛門と呼びかけられて何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か杯いふ心は住地煩惱にて候、止りて物に動かされ迷はさるゝ心を所住煩惱とて凡夫にて候、又右衛門と呼ばれてオツと答ふるは諸佛智なり、佛と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候、此の心の如くなるを神とも佛とも申し候、
新字:石火の機と申すもピカリとする稲光のはやきを申し候、例へば右衛門とよびかくるとアツと答ふるを不動智と申し候、右衛門と呼びかけられて何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か杯いふ心は住地煩悩にて候、止りて物に動かされ迷はさるゝ心を所住煩悩とて凡夫にて候、又右衛門と呼ばれてオツと答ふるは諸仏智なり、仏と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候、此の心の如くなるを神とも仏とも申し候、
書き下し
石火の機と申すもピカリとする稲光のはやきを申し候、例へば右衛門とよびかくるとアツと答ふるを不動智と申し候、右衛門と呼びかけられて何の用にてか有る可きなどゝ思案して、跡に何の用か杯いふ心は住地煩悩にて候、止りて物に動かされ迷はさるゝ心を所住煩悩とて凡夫にて候、又右衛門と呼ばれてオツと答ふるは諸仏智なり、仏と衆生と二つ無く、神と人と二つ無く候、此の心の如くなるを神とも仏とも申し候、
現代語訳
石火の機というのも、ぴかりとする稲光の速さを言うのです。たとえば、右衛門と呼びかけると、あっと答えるのを不動智と言います。右衛門と呼びかけられて、何の用だろうかなどと思案して、あとから、何の用か、などと言う心は住地煩悩です。とどまって物に動かされ、迷わされる心を所住煩悩といって、凡夫なのです。また、右衛門と呼ばれて、おうと答えるのは諸仏の智慧です。仏と衆生は二つではなく、神と人も二つではありません。このような心のあり方を、神とも仏とも言うのです。
解説
この章句が説くこと
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『不動智神妙録』石火之機石火之機と申す事の候、是れも前の心持にて候、石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまゝ出る火なれば間も透間もなき事にて候、是れも心の止るべき間のなき事を申し候、早き事とばかり心得候へば悪敷候、心を物に止め間敷と云ふが詮にて候。
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『不動智神妙録』石火之機又是れにて御合点可有候、禅宗にて如何是仏と問ひ候はヾ、拳をさしあぐべし、如何か仏法の極意と問はヾ其声未だ絶たざるに一枝の梅花となりとも庭前の柏樹子となりとも云ふべし、云ふ事の吉凶を撰ぶにてはなし止らぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は色にも香にも移らぬ也、此移らぬ心の体を神とも祝ひ、仏とも尊び、禅心とも極意とも申候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩悩にて候、
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『不動智神妙録』諸仏不動智然れば不動明王と申すも人の一心の動かぬ所を申し候、亦身を動転せぬことにて候、動転せぬとは物毎に留らぬ事にて候、物一目見て其心を止めぬを不動と申し候、なぜなれば物に心が止り候へば、いろいろの分別か胸に候間胸のうちにいろいろに動き候、止れば止る心は動きても動かぬにて候。
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『不動智神妙録』無明住地煩悩無明住地煩悩 無明とは、明になしと申す文字にて候、迷を申し候、住地とは、止る位と申す文字にて候、仏法修行に五十二位と申す事の候、その五十二位の内に物毎に心の止る所を住地と申し候、住は止ると申す義理にて候、止ると申すは、何事に付ても其事に心を止るを申し候、貴殿の兵法にて申し候はゝ向ふより切太刀を一目見て其まゝにそこにて合はんと思へは、向ふの太刀に其儘に心が止りて手前の働か抜け候て、向ふの人にきられ候、是れを止ると申し候、
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『不動智神妙録』有心の心 無心の心有心之心無心之心と申す事の候、有心の心と申すは妄心と同じ事にて、有心とはアルコヽロと読む文字にて、何事にても一方へ思ひ詰る所なり、心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候、無心の心と申すは右の本心と同じ事にて、固り定まりたる事なく分別も思案も何も無き時の心、総身に広ごりて全体に行渡る心を無心と申す也、どツこにも置かぬ心なり、石か木かのやうにてはなし、留る所なきを無心と申す也、留れば心に物かあり留る所なければ心に何も無し、心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候、