塩鉄論 / 散不足篇
「古聖人勞躬養神、節欲適情、尊天敬地、履德行仁。是以上天歆焉、永其世而豐其年。故堯秀眉高彩、享國百載。及秦始皇覽怪迂、信禨祥、使盧生求羨門高、徐市等入海求不死之藥。當此之時、燕、齊之士、釋鋤耒、爭言神仙。方士於是趣咸陽者以千數、言仙人食金飲珠、然後壽與天地相保。於是數巡狩五嶽、濱海之館、以求神仙蓬萊之屬。數幸之郡縣、富人以貲佐、貧者築道旁。其後、小者亡逃、大者藏匿、吏捕索掣頓、不以道理。名宮之旁、廬舍丘落、無生苗立樹、百姓離心、怨思者十有半。書曰:『享多儀、儀不及物曰不享。』故聖人非仁義不載於己、非正道不禦於前。是以先帝誅文成、五利等、宣帝建學官、親近忠良、欲以絕怪惡之端、而昭至德之塗也。
新字:「古聖人労躬養神、節欲適情、尊天敬地、履徳行仁。是以上天歆焉、永其世而豊其年。故堯秀眉高彩、享国百載。及秦始皇覧怪迂、信禨祥、使盧生求羨門高、徐市等入海求不死之薬。当此之時、燕、斉之士、釈鋤耒、争言神仙。方士於是趣咸陽者以千数、言仙人食金飲珠、然後寿与天地相保。於是数巡狩五嶽、浜海之館、以求神仙蓬萊之属。数幸之郡県、富人以貲佐、貧者築道旁。其後、小者亡逃、大者蔵匿、吏捕索掣頓、不以道理。名宮之旁、廬舎丘落、無生苗立樹、百姓離心、怨思者十有半。書曰:『享多儀、儀不及物曰不享。』故聖人非仁義不載於己、非正道不禦於前。是以先帝誅文成、五利等、宣帝建学官、親近忠良、欲以絶怪悪之端、而昭至徳之塗也。
書き下し
古の聖人は躬を勞し神を養い、欲を節し情に適い、天を尊び地を敬い、德を履み仁を行う。是を以て上天歆み、其の世を永くして其の年を豐かにす。故に堯は秀眉高彩にして、國を享くること百載なり。秦の始皇に及び、怪迂を覽、禨祥を信じ、盧生をして羨門高を求めしめ、徐市等をして海に入りて不死の藥を求めしむ。此の時に當たり、燕・齊の士は、鋤耒を釋てて、爭いて神仙を言う。方士の是に於いて咸陽に趣く者は千を以て數う、仙人は金を食い珠を飲み、然る後に壽は天地と相い保つと言う。是に於いて數しば五嶽、濱海の館を巡狩して、以て神仙蓬萊の屬を求む。數しば幸する所の郡縣は、富人は貲を以て佐け、貧者は道旁に築く。其の後、小なる者は亡逃し、大なる者は藏匿す、吏は捕索掣頓して、道理を以てせず。名宮の旁、廬舍丘落して、生苗立樹無し、百姓は心を離し、怨み思う者は十に半ば有り。書に曰く、『享は儀を多しとす、儀の物に及ばざるを不享と曰う』と。故に聖人は仁義に非ざれば己に載せず、正道に非ざれば前に禦せず。是を以て先帝は文成・五利等を誅し、宣帝は學官を建て、忠良を親近す、以て怪惡の端を絕ちて、至德の塗を昭らかにせんと欲すればなり。
現代語訳
昔の聖人は身を労して精神を養い、欲を節して情に沿い、天を尊び地を敬い、徳を踏み仁を行った。だから天も喜び受け、その治世を長くし、その年を豊かにした。だから堯は秀でた眉に輝く顔色で、国を保つこと百年に及んだ。ところが秦の始皇帝は、怪しく遠回りな説を好み、縁起を信じ、盧生に羨門高という仙人を探させ、徐市らに海へ出て不死の薬を求めさせた。この時期、燕と斉の士は鋤や鍬を捨てて、争って神仙を語った。方士で咸陽へ押し寄せた者は千を数え、仙人は金を食べ真珠を飲む、そうすれば寿命は天地と同じだけ保たれる、と言った。そこで始皇帝はたびたび五岳や海辺の館をめぐり、神仙や蓬莱のたぐいを求めた。行幸のたびに、富める者は財で援助し、貧しい者は道端で普請に駆り出された。その後、小者は逃亡し、大物は身を隠した。役人は捕らえ引き立て、道理によらなかった。名だたる宮殿のそばでは、住まいが荒れ果て、苗も立ち木もなくなった。民は心を離し、怨み嘆く者が半分に及んだ。『尚書』にいう、供え物は礼のありようを重んじる。礼が供え物に伴わなければ、それは供えたことにならない、と。だから聖人は仁義でなければ我が身に載せず、正しい道でなければ目の前に置かなかった。だから先帝は文成将軍や五利将軍らを誅し、宣帝は学官を建てて忠良の士を近づけた。怪しく悪しきものの根を絶ち、至高の徳の道を明らかにしようとされたからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 秦始皇本紀始皇、韓終・侯公・石生をして僊人不死の薬を求めしむ。盧生始皇に説きて曰く、「真人は、水に入るも濡れず、火に入るも爇けず、雲気に陵り、天地と久長なり。願はくは上の居る所の宮、人をして知らしむる毋かれ、然る後に不死の薬殆ど得可きなり」と。是に於て始皇曰く、「吾真人を慕ふ」と。乃ち咸陽の旁二百里内の宮観二百七十をして復道甬道もて相連ならしむ。侯生盧生相与に謀りて曰く、「始皇の人と為り、剛戻自用なり」と。乃ち亡げ去る。
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貞観政要・慎所好貞観二年、太宗侍臣に謂いて曰く、「神仙の事は本と是れ虚妄なり。空しく其の名有るのみ。秦の始皇は分に非ずして愛好し、方士の詐る所と為る。乃ち童男童女数千人を遣わし、其れに随いて海に入り神仙を求めしむ。方士は秦の苛虐を避け、因りて留まりて帰らず。始皇は猶お海側に踟躕(ちちゅう)して以て之を待つ。還りて沙丘に至りて死す。漢の武帝は神仙を求むるが為に、乃ち女を将(もっ)て道術の人に嫁す。事既に験無くんば、便ち誅戮を行う。此の二事に拠らば、神仙は煩わしく妄りに求むべからざるなり」と。
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『塩鉄論』國疾篇賢良曰く、夫れ山東は天下の腹心、賢士の戰場なり。高皇帝は宋・楚の間に龍飛鳳舉し、山東の子弟蕭・曹・樊・酈・滕・灌の屬輔と為る、世を異にすと雖も、亦た既に閎夭・太顛のみ。禹は西羌に出で、文王は北夷に生まる、然れども聖德世に高く、萬人の才有り、群を叠ぬるの任を負う。仆京師に生長せずと雖も、才は駑にして下愚、與に大議するに足らず、竊かに閭里の長老の言に聞く所を以てせん。往者、常民の衣服は溫暖にして靡ならず、器は質樸牢にして用に致る、衣は以て體を蔽うに足り、器は以て事を便にするに足り、馬は以て步に易うるに足り、車は以て自ら載するに足り、酒は以て歡を合するに足りて湛れず、樂は以て心を理むるに足りて淫せず、入りては宴樂の聞無く、出でては佚遊の觀無し、行けば即ち負嬴し、止まれば則ち鋤耘す、用約にして財饒か、本修まりて民富む、死を送るに哀しみて華ならず、生を養うに適して奢らず、大臣は正しくして欲無く、執政は寬にして苛ならず、故に黎民は其の性を寧んじ、百吏は其の官を保てり。建元の始め、文を崇び德を修め、天下乂安なり。其の後、邪臣各々伎藝を以て、至治を虧亂す、外は山海を障り、內は諸利を興す。楊可の告緡、江充の禁服、張大夫の革令、杜周の治獄、罰贖科適、微細並び行われ、勝げて載すべからず。夏蘭の屬は妄りに搏り、王溫舒の徒は妄りに殺す、殘吏萌起して、良民を擾亂す。此の時に當たりて、百姓は其の首領を保たず、豪富も其の族姓を必とする莫し。聖主覺り、乃ち充等を刑戮し、殘賊を誅滅し、以て死罪の怨を殺ぎ、天下の責を塞ぐ、然る後に居民肆然として復た安んず。然れども其の禍は累世復せず、瘡痍今に至るまで未だ息まず。故に百官には尚お殘賊の政有り、而して強宰には尚お強奪の心有り。大臣は權を擅にして擊斷し、豪猾は黨多くして侵陵す、富貴は奢侈し、貧賤は篡殺す。女工は成り難くして弊れ易く、車器は就り難くして敗れ易し、車は累ならず、器は歲を終えず、一車は千石、一衣は十鐘なり。常民すら文杯畫案、機席緝あり、婢妾すら紈を衣て絲を履き、匹庶すら粺飯肉食す。裏に俗有り、黨に場有り、康莊に馳逐し、窮巷に蹋鞠す、耒を秉り臿を抱き、躬ら耕し身ら織る者は寡く、要を聚め容を斂め、白を傅け青を黛する者は眾し。無くして有りと為し、貧しくして強いて誇る。文表にして裏無く、紈もて枲を裝う。生きては養わず、死しては厚く送る、葬死は家を殫くし、遣女は車に滿つ、富者は過ぎんと欲し、貧者は及ばんと欲す、富者は空しく減じ、貧者は稱貸す。是を以て民は年急にして歲促る、貧しければ即ち恥寡なく、乏しければ即ち廉少なし、此れ刑の惡を誅するに非ずして奸猶お止まざる所以なり。故に國に嚴急の征有れば、即ち散不足の疾を生ずるなり。
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『塩鉄論』執務篇賢良曰く、孟子曰く、『堯・舜の道は、人に遠きに非ざるなり、而して人之を思わざるのみ』と。詩に云う、『之を求めて得ざれば、寤寐に思服す』と。求むること關睢の如く、德を好むこと河廣の如くんば、何ぞ濟らず得ざることの有らんや。故に高山は仰ぎ止み、景行は行き止む、及ぶ能わずと雖も、道を離るること遠からざるなり。顏淵曰く、『舜は獨り何人ぞや、回は何人ぞや』と。夫れ賢を思い能を慕い、善に從いて休まざれば、則ち成・康の俗も致すべく、而して唐・虞の道も及ぶべし。公卿未だ思わざるなり、先王の道、何ぞ遠きこと之れ有らん。齊桓公は諸侯を以て王政を思い、周室を憂え、諸夏の難を匡し、夷・狄の亂を平らげ、亡を存し絕を接ぎ、信義大いに行われて、天下に著る。邵陵の會、之に予して主と為す。傳に曰く、『予は積なり』と。故に土積みて山阜と成り、水積みて江海と成り、行い積みて君子と成る。孔子曰く、『吾河廣に於いて、德の至れるを知る』と。而して之を得んと欲せば、各々其の本に反り、諸を古に復するのみ。古者、行役は時を踰えず、春に行けば秋に反り、秋に行けば春に來たる、寒暑未だ變ぜず、衣服易えずして、固より已に還れり。夫婦は時を失わず、人は安和にして適くが如し。獄訟平らかに、刑罰得れば、則ち陰陽調い、風雨時あり。上苛擾せず、下煩勞せず、各々其の業を修め、其の性に安んずれば、則ち螟螣生ぜずして、水旱起こらず。賦斂省かれて農は時を失わざれば、則ち百姓足りて、流人は其の田里に歸る。上清靜にして欲せざれば、則ち下は廉にして貪らず。今の若くんば則ち繇役は極めて遠く、寒苦の地、危難の處を盡くし、胡・越の域に涉り、今茲往きて來歲に旋る。父母は頸を延べて西を望み、男女は怨曠して相い思う、身は東楚に在りて、志は西河に在り。故に一人行きて鄉曲恨み、一人死して萬人悲しむ。詩に云う、『王事盬きこと靡く、稷黍を藝うる能わず、父母何をか怙まん』と。『彼の恭人を念えば、涕零つること雨の如し。豈に歸るを懷わざらんや、此の罪罟を畏るればなり』と。吏は法を奉じて以て存撫せず、公に倍きて私に任せ、各々其の權を以て其の嗜欲を充たす。人愁苦して怨思し、上恤み理めざれば、則ち惡政行われて邪氣作る、邪氣作れば、則ち蟲螟生じて水旱起こる。此くの若くんば、禱祀雩祝し、百神に事うること時無しと雖も、豈に能く陰陽を調えて盜賊を息めんや。
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『塩鉄論』散不足篇丞相曰く、願わくは散不足を聞かん、と。/賢良曰く、宮室輿馬、衣服器械、喪祭食飲、聲色玩好は、人情の已む能わざる所なり。故に聖人之が制度を為して以て之を防ぐ。間者、士大夫は權利に務め、禮義に怠る、故に百姓仿效して、頗る制度を踰ゆ。今故に之を陳べん、と。
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説苑・反質秦の始皇既に天下を兼ねて、大いに侈靡し、位に即くこと三十五年猶お息まず、大馳道を治め、九原自り雲陽に抵り、山を塹り谷を堙めて直に之に通ず。先王の宮室の小なるを厭い、乃ち豐鎬の間、文武の處に於て、朝宮を營作す、渭南の山林苑中に前殿を作る、阿房東西五百步、南北五十丈、上は萬人を坐すべく、下は五丈の旗を建つべし、周りに閣道を為す。殿自り直ちに南山の嶺に抵りて以て闕と為し、複道を為し、阿房自り渭水を渡りて咸陽に屬し、以て天極に象り、閣道漢を絕ち、營室に抵るなり。又驪山の役を興し、三泉の底を錮め、關中の離宮三百所、關外四百所、皆鐘磐帷帳、婦女倡優有り。石闕を東海上朐山の界中に立て、以て秦の東門と為す。是に於て方士韓客侯生、齊客盧生有り、相與に謀りて曰く、「當今の時は以て居るべからず、上は刑殺を以て威と為すを樂しみ、天下罪を畏る。祿を持して敢えて盡忠せず、上は過を聞かずして日に驕り、下は懾伏して以て慢欺して容を取り、諫者用いられずして道を失うこと滋よ甚し。吾が黨久しく居らば、且に害せらる所と為らんとす。」乃ち相與に亡げ去る。始皇之を聞きて大いに怒り、曰く、「吾異日盧生を厚くし、爵を尊びて之に事えしむ、今乃ち我を誹謗す、吾諸生多く妖言を為して以て黔首を亂すと聞く。」乃ち御史をして悉く諸生を上げしむ、諸生傳えて相い告げ、法を犯す者四百六十餘人、皆之を坑にす。盧生は得ず、而して侯生後に得らる、始皇之を聞きて、召して之に見え、阿東の臺に升り、四通の街に臨み、將に數えて之を車裂かんとす。始皇侯生を望見して、大いに怒りて曰く、「老虜不良、而が主を誹謗し、迺ち敢えて復た我に見ゆるか!」侯生至りて、臺を仰ぎて言いて曰く、「臣聞く、死を知れば必ず勇なりと、陛下臣の一言を聽くを肯んぜんか?」始皇曰く、「若何をか言わんと欲する?之を言え!」侯生曰く、「臣聞く、禹誹謗の木を立つるは、以て過を知らんと欲すればなり。今陛下奢侈にして本を失い、淫泆にして末に趨き、宮室臺閣、連屬增累し、珠玉重寶、積襲して山を成し、錦繡文采、府に滿ちて餘り有り、婦女倡優、數巨萬人、鍾鼓の樂、流漫窮まり無く、酒食珍味、盤錯して前に有り、衣服輕暖、輿馬文飾、以て自ら奉ずる所、麗靡爛熳、勝げて極むべからず。黔首匱竭し、民力單盡し、尚お自ら知らず、又誹謗を急にし、嚴威もて下を克ち、下喑上聾、臣等故に去れり。臣等は臣が身を惜しまず、陛下の國の亡ぶるを惜しむのみ。聞く古の明王は、食は以て飽くに足り、衣は以て暖なるに足り、宮室は以て處るに足り、輿馬は以て行くに足る、故に上は天に棄てられず、下は黔首に棄てられず。堯は茅茨剪らず、采椽斲らず、土階三等にして、身を終うるまで樂しみし者は、俗其の文采の少なくして、質素の多きを以てなり。丹朱傲虐にして慢淫を好み、理化を修めず、遂に以て升らず。今陛下の淫、丹朱に萬し昆吾桀紂に十す、臣陛下の十亡を恐る、而して曾て一存だにせず。」始皇默然として之を久しくし、曰く、「汝何ぞ早く言わざる?」侯生曰く、「陛下の意、方に青雲に乘りて文章の觀に飄搖し、自ら賢とし自ら健とし、上五帝を侮り、下三王を凌ぎ、素樸を棄て、末技に就く、陛下の亡徵見えて久し。臣等言うも益無きを恐れ、而して自ら死を取る、故に逃れて敢えて言わず。今臣必ず死す、故に陛下の為に之を陳ぶ、陛下をして亡びざらしむる能わずと雖も、陛下自ら知らしめんと欲す。」始皇曰く、「吾以て變ずべきか?」侯生曰く、「形已に成れり、陛下坐して亡を待つのみ!若し陛下之を更めんと欲せば、能く堯と禹との如くならんか?然らずんば冀む無し。陛下の佐も又非なり、臣陛下の之を變ずるも存する能わざるを恐る。」始皇喟然として歎じ、遂に釋きて誅せず。後三年始皇崩ず、二世位に即き、三年にして秦亡ぶ。